問題の結末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 04:25 UTC 版)
1923年3月5日、レーニンはスターリンとの個人的な関係を解消した。レーニンはグルジア問題を引き継がせるためレフ・トロツキーを後継者にしようとし、スピーチと3つの覚書の用意を始めた。そこでレーニンは議会に対して、スターリンを書記長職から罷免することを布告しようとしたのであった。しかし、スターリンと妻ナデジダとの確執を知った直後の1923年3月9日、レーニンは3度目の発作に襲われ、次第に死へと近づいてゆく。トロツキーがこの問題に関してスターリンに立ち向かうことをしなかったのは、おそらくトロツキーがグルジアに対し、メンシェヴィキの根拠地であるとの偏見を長年にわたり抱いていたためであった。第12回党大会において、グルジア共産党員は孤立を感じることになった。レーニンの覚書は公表されず、壇上から発せられるグルジアとウクライナの民族主義を批判するあらゆる言葉は熱烈な喝采で歓迎されたのに対し、大ロシアの盲目的愛国主義への批判を少しでも暗示するような言葉は無情な沈黙に迎えられた。 このように、レーニンの病とスターリンの党への影響力の増大、および完全なる権力掌握への接近と、レフ・トロツキーが権力の中心から遠ざけられたことは、グルジア共産党内の分権論者の力が無視されるように追いやられたことと一対になっていたのである。 この問題はグルジアのオールド・ボリシェヴィキの昇進を妨げるものであったが、オルジョニキーゼの評判もまた悪化し、すぐにカフカスから召還された。ムディヴァニとその仲間は下級職へ降格されたが、しかし彼らは1920年代後半までは苦しめられなかった。彼らのうちのムディヴァニを含むほとんどは後に1930年代の大粛清によって処刑された。グルジアの「民族主義的逸脱主義者」が敗北したことの主たる結果は、グルジアに対する政治的弾圧の激化であり、1924年8月の武装蜂起と続く赤色テロに到り、数千人が犠牲となった。一方、屈服したマハラゼは1950年まで生き永らえた。
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