問題の背景<1>総督府の糖業奨励
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「米糖相克」の記事における「問題の背景<1>総督府の糖業奨励」の解説
1895年(明治28年)日本による台湾統治が始まると台湾総督府が糖業を増進すべく甘蔗の耕作を奨励した。とりわけ第4代総督児玉源太郎(1898年着任)及び民政長官後藤新平による児玉・後藤政治においては、台湾植民政策の中心を産業振興に置き、そのまた中心を糖業奨励に置いた。そのため、甘蔗の耕作地が次第に北へと発展するようになった。従来すみ分けられていた米作と甘蔗作との間で空間的な競合の可能性が生じてくるようになった。加えて、1901年(明治44年)新渡戸稲造の建議した「糖業改良意見書」に基づき、台湾糖業奨励規則により各種糖業奨励政策を展開すると同時に、製糖場取締規則に基づき日本から進出した台湾製糖、大日本製糖、明治製糖、帝国製糖、塩水港製糖などの巨大製糖企業のために原料採取区域設定して、原料供給を保証した。ただし、こうして設定された原料採取区域も、農民に甘蔗の栽培を義務付けるというものでなく、何を栽培するかは農民の自由にまかされていた。ただ甘蔗を栽培した場合にのみ必ず所定の製糖場にそれを売却することを義務付けていたに過ぎない。原料確保のためには不徹底なものであり、甘蔗に代わる有力な競争作物(たとえば米等)が出現した場合には、製糖業の原料確保に困難をきたすことは容易に想定できたものであった。にもかかわらずこのような形でしか耕作農民を規制しえないことは、日本の台湾統治の限界を示すものであった。
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