公職選挙法、政治資金規正法改正と自民党総裁選改革問題
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「三木武夫」の記事における「公職選挙法、政治資金規正法改正と自民党総裁選改革問題」の解説
田中の著しい金権体質が国民の激しい批判を浴びた後を受け、三木はいわば緊急避難的に首相となった。椎名が三木を指名した最大の理由は、田中の金権問題で深く傷ついた自民党を再建できる人物と判断したからであった。1937年(昭和12年)の衆議院議員初当選時から政治の浄化を強く訴えていた三木は、自民党の有力政治家となった後も、池田内閣時の三木答申、これまで3回の総裁選立候補時、そして田中内閣の閣僚辞任後と、自民党の近代化、そして政界の浄化を訴え続けていた。三木政権開始時の内閣支持率は、歴代自民党内閣のスタート時と比べて特に高い支持率ではなかったが、人心が完全に離れてしまっていた田中政権末期に比べると大きく盛り返していて、ある程度の世論からの支持を受けることに成功していた。三木は世論の支持を背景に、政治浄化と公正な社会ルール作りという、自らが考える政策実現に向けて動き始める。 三木は自民党総裁に選出された1974年(昭和49年)12月4日の自民党両院議員総会の席で5つの政治課題を挙げた。当時日本はオイルショックの影響でインフレと不況の真っ只中であった。そのような厳しい経済状況下での総裁就任であったが、三木は5つの課題の筆頭に党近代化、政界浄化を挙げた。 1974年(昭和49年)12月9日に成立した三木内閣発足直後、閣議の席で三木は自らが温めてきた政治改革試案を配布した。当時の閣議は事前の事務次官会議で承認を受けた案件のみが議題に乗る慣行になっていたが、政治改革の実現に執念を燃やす三木は、事務次官会議を経ることなく政治改革試案を閣議に諮った。2001年(平成13年)の内閣法改正により、内閣総理大臣は内閣の重要政策に関する基本的方針などの案件を発議できると定められることになったが、当時慣例であった事務次官会議を通さずに閣議に案件を諮った三木の手法は、内閣法改正を先取りしたものとも言える。 三木の政治改革試案は閣議で了承され、法案提出の手続きが始まった。続いて三木は12月26日には自らの資産を公開し、更に翌27日に党基本問題、選挙調査会長の椎名に、国会議員の推薦による立候補と全党員による予備選挙実施を骨子とする自民党総裁選の改正、企業献金を廃止して個人献金のみとする政治資金規正法改正、そして選挙公営の拡大、連座制を強化して選挙違反の取り締まりを厳しくするなどの公職選挙法改正についての三木試案を提言した。三木試案は7月に田中内閣の閣僚を辞任した後、自らのブレーンである専門家の意見を参考にしながらまとめたもので、ただちに実行できる法案形式にまで整えられたものであった。 1975年(昭和50年)4月、公職選挙法改正案、政治資金規正法改正案は相次いで衆議院に提出された。公職選挙法改正案は、まずかねてから是正が求められていた選挙区ごとの議員定数不均衡の問題について、定数を20増やして衆議院議員の総数を511とし、5つの選挙区の分区を行った。続いて選挙公営を拡大し、更には立候補者が自らの選挙区への寄付を禁じた。そして政党の機関紙など文書配布への規制を強化した、最後の部分の改正は共産党、公明党が強く反対したため、規制を当初の政府案よりやや緩くした社会党、民社党の修正案が成立した。公職選挙法改正案では、三木が当初考えていた小切手による選挙費用支弁の義務化による選挙費用の透明化と選挙違反の裁判の迅速化は反対が強く、当初の政府案に乗せることも出来なかった。 一方政治資金規正法改正案は、自民党内から政治基盤となる資金源にメスを入れるもので、自民党の弱体化に繋がるとして強い反対の声が上がり、審議は難航した。三木は当初3年以内の企業献金全廃を目指したが、これは自民党内からの激しい抵抗に遭って早々に引っ込められた。結局、これまで制限が無かった政治献金について、企業や労働組合など団体からの献金、そして個人献金に上限額を設け、各政治団体は選挙管理委員会ないし自治省に収支報告を義務付け、更に一定額以上の献金があった場合、献金した個人名、企業、団体の名を公表することとした。この政治資金規正法改正案は、政治家が持つことができる政治団体の数に制限が無いなどの抜け道も多かったが、1975年(昭和50年)7月4日の参議院本会議の採決の結果、可否同数となり、河野謙三議長が議長決裁で賛成としたため辛うじて成立した。 政治資金規正法改正によって、これまでのように政治献金が集めにくくなるなどの効果もあったが、政治資金パーティが発達するなど、より巧妙な政治資金集めが盛んになる事態も発生した。三木の政治資金規正法改正案は金権政治からの脱却を目指したものであったが、政治腐敗をもたらす根本的な制度面などの検討が不十分であり、金権政治からの脱却という目的からみて最も適切なやり方であったのか疑問との意見がある。一方、三木としては政治改革は継続して取り組むべき課題であり、首相退任後も連座制強化など政治改革についての活発な提言を行っていた。三木以降にもリクルート事件、佐川急便事件など、政界を揺るがす汚職事件が続発し、政治改革が大きな政治課題として取り上げられることになる経過からも、三木の政治改革への取り組みの先駆性を評価する意見もある。 公職選挙法改正案と政治資金規正法改正案はまがりなりにも成立したが、三木が目指した自民党総裁選の制度改正は暗礁に乗り上げた。三木の総裁選改革は全党員による総裁予備選挙の実施を行い、その後に国会議員による本選挙を行うことを目指したが、田中派や大平派を中心に強い反発が起きた。とりわけ大平は党近代化を訴える三木が、密室政治の極みともいえる椎名裁定で総理総裁の座を手に入れたことに抜き難い不信感を持っていた。総裁選の制度改正は三木政権下で論議が続けられたが、1976年(昭和51年)に入るとロッキード事件のあおりを受けて事実上の棚上げ状態となり、続く福田政権への継続課題となった。全党員による総裁予備選挙の導入は1977年(昭和52年)4月になった。しかし全党員による総裁予備選挙は、党員の末端まで派閥が浸透するという弊害も招いた。
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