公職追放危機の回避
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
GHQは早くも1945年12月24日にはこれまでの三木の経歴を調べており、更に戦時中に大東亜戦争の遂行、八紘一宇、大東亜共栄圏の実現を望み、翼賛議会の確立を訴えていたことを確認していた。1946年1月には徳島市から、軍需省で要職を務めた三木は軍産複合体の代理人として軍需生産の拡大を訴えており、A級戦犯の荒木貞夫から資金や支援を受けながら選挙戦を戦っており、更に米国留学中にはスパイ活動を行っていた旨の投書があった。そして5月には民政局宛に、三木は軍需省の参与官を務めており、翼賛選挙中は軍人らが「三木こそ軍国的な人物なのになぜ非推薦なのか」と言って応援しており、その上米英撃滅運動を行っていた等の投書が届いた。これらの内容は三木にとって不利なものばかりであり、三木も公職追放されかねない情勢となった。 三木については公職追放を管轄した民政局内で二種類の調書が作成されたことが明らかになっている。最初の調書では、三木が米国でスパイ活動を行っていたとの申し立てがあること、更に戦時中には八紘一宇を説いていたとされ、また三木の欧米旅行を講演のためとし、戦前の日米関係への関与も日米親善国民大会に資金を出し、日米同志会創設に係わったとされている。この調書により、三木は追放には値しないものの議員資格には疑問があるとされた。しかし1947年(昭和22年)6月に作られた後の調書では、まず三木のスパイ疑惑については、三木の米国留学中の恩師がGHQの要員として来日したことによって疑いが晴らされた。そして八紘一宇を説いていたとの節は最終的に全削除され、三木の戦時中の経歴のみ残された。そして欧米旅行も国際平和と協調を講演したとされ、日米関係への尽力に関しても記述が増えた上に、日独伊による枢軸に反対であったと書き加えられた。 結局三木の後の調書では、最初の調書で触れられていた戦時中の言動を不問とし、更に戦前における日米友好等の活動を強調し、三木を親米的な人物としたものになった。後の調書によって三木は最終的に追放除外の決定が下されたものと考えられる。これはまず、三木は盟友である松本瀧蔵とともにGHQに出入りしており、その中で自らの主張を民政局に伝え、追放回避を図っていたものと見られている。民政局としても農民政党であった国民協同党内に、三木や松本によって協同民主主義が広められた結果、知識人らに支持を得るようになったと評価しており、中道、革新勢力の育成のためにも追放は政治的に好ましくないと判断したものと考えられる。三木と同様の理由で芦田均、西尾末広も追放の不適用が決定されたと見られ、民政局に望ましくない人物と見なされた鳩山一郎、石橋湛山が追放されたこととともに、公職追放が政治的理由により決定された面があることを示している。 その後1948年(昭和23年)3月3日の第53回対日理事会の席で、ソ連代表のキスレンコ(ロシア語版)少将は芦田均、西尾末広らとともに三木を追放すべきと主張した。しかし米国代表のシーボルドはキスレンコの発言に激しく反駁し、中国代表、英国代表がシーボルドの意見に同調したため、ソ連代表の追放主張がこれ以上問題とはなることは無かった。
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