公式調査
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公式調査は、海難調査委員会のヘンリー・キャドガン・ロザリー (Henry Cadogan Rothery) が委員長を務め、鉄道検査官のウィリアム・ヨランド (William Yolland) と土木技術者のウィリアム・ヘンリー・バーロー (William Henry Barlow) が補佐した。彼らは、テイ橋は「不適切に設計され、不適切に建設され、不適切に保守されており、崩壊は本質的な構造の欠陥によるもので、遅かれ早かれ崩壊に至るものであった」と結論付けた。 事故の数ヶ月前には、中央の構造が劣化してきている明確な兆候があった。保守検査官のヘンリー・ノーブル (Henry Noble) は、1878年6月の開通後2-3ヵ月後には鍛造の支柱つなぎ材のジョイントがガタガタする音を聞いており、これはジョイントが緩んできていることを示すものであった。これにより、多くの支柱つなぎ材は鋳鉄橋脚を固定する役を果たさなくなった。ノーブルはジョイントを締め直そうとせず、代わりにガタつきを止めるために鉄製のくさびを打ち込んでいた。 ハイ・ガーダーが崩壊するまで、さらに問題は続いた。1879年夏には橋の上で働いていた塗装工により、中央部分は水平方向の動きに不安定であることが指摘された。北行列車の乗客は客車の変な動揺に苦情を言ったが、これは橋の所有者であるノース・ブリティッシュ鉄道により無視された。伝えられるところによれば、ダンディー市長は列車の橋の通過時間を計測しており、公式制限速度の 25 マイル毎時(約 40 キロメートル毎時)を大きく超える 40 マイル毎時で走行していることが分かった。 この調査により「設計・建設・保守上のこれらの欠陥について、トーマス・バウチ氏は、我々の意見では、主たる責任がある。設計の欠陥については彼に完全に責任がある」と指摘され、バウチの職業上の評価は失墜した。同じ線で計画されていたフォース鉄道橋に対するバウチの設計に関わっていた取引委員会は、1 平方フィートあたり56 ポンドの仕様を課した。新しいフォース橋の契約は、ベンジャミン・ベーカー (Benjamin Baker) とジョン・ファウラー (John Fowler) の設計により、ウィリアム・アロル・アンド・カンパニー (Sir William Arrol & Co.) に落札された。バウチは事故後1年経たないうちに死去した。 J N C ロー (J N C Law) はそのレールウェイ・マガジン誌1965年3月号160ページの総合記事の中で、強風が橋を崩壊させる前に風により列車が転覆していたことを示す強い証拠があると示唆している。彼は、当時の軽い鉄道車両が風で転覆しながら、列車先頭の重い機関車だけが線路上に残ったいくつかの事故を列挙している。列車全体の重量はわずか 115 トンしかなく、6両の客車のうち5両の二等車は 6 トン以下の重量しかなかった。当時の調査では、この車両を転覆させるために必要とされる風の力は 1 平方フィートあたり 36.6 ポンドと推定されていたが、ローの再計算によれば 1 平方フィートあたり 27.7 ポンドであった。これに対して、当時の調査でも橋の構造が危険になるには最低 1 平方フィートあたり 33 ポンドの風圧が必要と推定されていた。さらにローは、列車が引き上げられた時に、最後の2両の客車ははるかに大きく損傷していたことを指摘した。それゆえ、彼はまず列車が脱線してそれがハイ・ガーダーの崩壊を引き起こしたと主張している。ハイ・ガーダーの存在するところで事故が起きていなければ、列車は単に鉄橋から転落するだけで、橋そのものが崩壊することはなかっただろうとしている。ローは、バウチにも橋の建設品質に関して責任がなかったとはいえないとする一方で、バウチは調査で不公正にスケープゴートにされたと見ている。 この主張はローのオリジナルのものではなく、バウチによる反論でも提出されている。しかしながら公式調査ではこの説に完全に疑問を投げかけられており、もし列車が脱線して橋の崩壊を招いたのであれば、なぜそんなに橋は弱かったのか、という疑問に対応することができなかった。またこの説は、橋の崩壊が列車が脱線した場所だけではなく半マイルにも及んだことも説明できなかった。 転落した車両のうち、ノース・ブリティッシュ鉄道の224号機関車は川から引き上げられ、カウレア (Cowlairs) で修理されて生き残った。この機関車は1919年まで運用に就いており、「ザ・ダイバー」(The Diver) のニックネームで呼ばれていた。多くの迷信深い機関士は、新しく架け直された橋をこの機関車で通ることに気乗りがしなかったという。
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公式調査
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「1961年国連チャーター機墜落事故」の記事における「公式調査」の解説
ハンマルフェルドの死を巡り、墜落状況について翌年までに三つの公式調査機関が立ち上げられた:ローデシア民間航空局によるローデシア調査委員会、公聴会を開いたローデシア審問委員会、および国連調査委員会である。 ローデシア調査委員会はイギリス軍中佐の指揮下で1961年9月19日から同年11月2日まで活動した。ローデシア審問委員会は国連とは独立に1962年1月16日から同月29日にかけて公聴会を開いた。これらの後に続いた国連調査委員会は1962年に一連の公聴会を開いたが、一部は先行した二つの公式調査にて得られた証言に依拠している。国連の調査では5名の著名な人物が事務総長より任命され、その中からネパールの外交官リシケシ・シャー(英語版)が全会一致で委員長として選出された。 三つの公式調査では墜落原因は特定されなかった。ローデシア調査委員会は墜落原因の物証を求めて180名の人員を投入し、墜落機が辿った飛行経路の終末部分に沿って6平方キロの地域を捜索したが、爆弾や地対空ミサイル、ハイジャックなどの証拠は見付からなかった。公式報告によると死亡したスウェーデン人の護衛官2名の遺体には複数の弾痕があった。これに関しローデシア調査委員会が実施した検死結果が国連調査でも採用されているが、それによると銃創は浅く、銃弾に線条痕はなかったといい、護衛官の至近にあった弾倉が火災の中で爆発したものと結論された。墜落機の残骸から何らかの犯行を示唆するような証拠は他には見付からなかった。 空で明るい閃光が見えたとの証言は、墜落を起こしたとするには時間が遅過ぎるとして棄却された。国連報告ではこれらの閃光は墜落後に生じた二次的な爆発ではないかとしている。乗客の中で、ハンマルフェルドの護衛官だった米国のハロルド・ジュリアン軍曹は、墜落で負傷したものの生きて発見された。ジュリアンはンドラの病院に収容され、墜落前に空で複数の閃光を見た、または機上で爆発があったと医師らに話した。治療に関わった医師によるとジュリアンは適切な設備のある病院に移送すれば十分助かる容態だったが、そのまま放置され5日後に腎不全で死亡した。公式審問では彼と会話した人々の証言は不整合だとして棄却された。 国連報告書は確立された捜索および救助手順に違反した多くの遅れがあると述べている。3つの個別の遅延があるという。一つ目に航空機が遭難したかも知れないことの初期認識が遅れた。二つ目に該当機が周辺のどの空港にも着陸していないことの確認が遅れ、遭難発生の事実認識が遅延した。三つ目にンドラ空港から僅か15kmに位置する墜落現場に対する捜索救助活動と残骸の発見自体が遅れた。検死結果はハンマルフェルドの死因を特定できなかった。ある報告はハンマルフェルドは墜落時に即死したとしているが、他の報告は救助活動が遅れなければ助かったかも知れないとしている。国連報告はまた、救助を急いでいればジュリアン軍曹が生き延びた可能性は「無限に」高まっただろうとしている。
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