乗馬具の技術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 20:33 UTC 版)
「鞍」、「鐙」、「頭絡」、および「ハミ」も参照 頑丈な支え(鞍橋(くらぼね)、鞍骨、鞍瓦)付きの鞍(solid-treed saddle)は、騎乗者の重量から馬を保護する支持面を備えていた。ローマ人は、ことによると早くも紀元前1世紀の初期に鞍橋を発明したとされており、紀元2世紀までには広範囲に広がっていた。中世初期の鞍はローマの「四つツノ」鞍("four-horn" saddle)に似ており、鐙なしで使用された。鞍橋の発明は重大だった。騎乗者を馬の背中の上に起こし、騎乗者の重量を分散させて馬の背中のどこか一部分に集中していた圧力を減らすことにより、馬の快適性を大幅に高め、耐用年数を伸ばした。鞍橋全体に重量が分散されると、馬はより多く運搬することができた。騎乗者の安全をより高める座席を鞍に組み付けることも可能になった。12世紀中からはハイ・ウォーサドル(high war-saddle、高軍人鞍)がより一般的となり、安全性が増すだけでなく防護機能も備えた。鞍橋に組み付けられた鞍尾(あんび、cantle)は、騎手がより効果的にランスを使用できるようにした。 鞍の下には、ときに馬飾り(英語版)(カパリスン、caparison)や鞍下(サドルクロス、saddle cloth)を着せた。これらは紋章の色や武具で装飾や刺繍を施すことができた。軍馬には、バーディング(barding, bard)と総称される追加の覆い、毛布、装甲が装備されることもあった。これらは装飾あるいは防御目的でもあった。トーナメントに限れば、通常初期のホースアーマー(horse armour、馬用装甲、馬鎧)の形状はトラッパー(trapper、飾り布)で覆われたパッド入りの革製で、とくに重くはなかった。まれに鎖帷子(くさりかたびら)やプレートアーマー(plate armour、板金装甲)も使用され、12世紀後半にはホースアーマー(「鉄の毛布("iron blanket")」)に関する文献資料が見え始める。 ローマは歩兵を重視していたものの、共和制後期には馬の防護装備がまれに見られた。ローマ軍の重装甲騎兵の最初の部隊はハドリアヌス帝のもとで導入され、当初は儀式的な訓練に用いられた。その後、おそらくは西暦3世紀から4世紀初頭、敵のパルティアやサーサーン朝をモデルにしたクリバナリ(英語版)(ラテン語: clibanarii)と呼ばれる特殊部隊の補助軍が導入され、西ヨーロッパを含む属州に配備された。しかしローマの衰退に伴い、アルプス以北の馬の防護装備の使用は完全に消滅したと見られる。12世紀になるとホースアーマーが徐々に再導入され、当時の騎兵同様、馬にも鎖帷子が着せられた。バハー・アッディーン・イブン・シャッダード(英語版)は、アッコ包囲戦(1189年 - 1191年)で「脚元まで鎖帷子で覆われた大きな馬」に乗る十字軍の騎士を記録し、1198年のジゾールの戦い(英語版)では、イングランドのリチャード1世が200頭のフランス軍の馬を捕獲し、そのうちの14馬は「鉄で覆われていた」と報告されている。シャフロン(shaffron、馬の頭部を防護する面)を含む板金による馬の防護は1250年頃以降に登場し始めた。15世紀初頭には人および馬のための完全なプレートアーマーが最終的な完成を見て、鎖帷子の使用は減少した。プレートアーマーはさまざまな装飾が可能だった。馬は戦争、トーナメント、儀式で重要な役割を果たしたので、騎乗者のものと同じくらい手の込んだ高価なホースアーマーがつくられたが、人の装甲よりもさらに希少だった。1400年代後半から1500年代後半にかけてホースアーマーは技術的にも芸術的にも洗練され、その最高級の作品はルネサンス装飾芸術の最大の業績とみなされている。 鞍橋により鐙(あぶみ、stirrup)の利用も効果的になった。鐙は中国で開発され、西暦477年までには広範囲に用いられた。7世紀までに、主としてアヴァールのような中央アジアからの侵入者により鐙がヨーロッパへもたらされ、8世紀までにはヨーロッパの騎乗者に受け入れられた。数ある利点の中でもとりわけ鐙はより大きな安定と支持を騎乗者に与え、とくに歩兵に対し騎士が落馬せず、より効果的に剣(sword)を使用することを可能にした。 8世紀以降、戦闘時の鞍上の戦士の安定性と安全性を目的とした鐙の使用が増加した。ランスは鐙なしで効果的に用いることができたものの、これが急襲戦術(英語版)(shock tactics)の運用拡大を導いた可能性がある。とりわけカール・マルテルは鐙の軍事的可能性を認め、没収した土地をこの新戦法で彼に仕えるという条件で臣下に分配した。 大鐙論争(英語版)で知られる説は、戦争における鐙の使用から生じた利点が封建制それ自体の誕生につながったと主張している。ほかの学者からは、しかしながら、この主張には異議が唱えられ、突撃戦における鐙の利点はほとんどなく、鐙はおもに戦闘中、鞍上で騎乗者を左右に大きく傾けることを可能にすることに役立ち、単に落馬の危険性を減少させたということを示唆している。したがって、中世の軍隊における歩兵から騎兵への転換の理由でも封建制の出現の理由でもないと主張されている。 馬を制御するために使用する種々多様なヘッドギアが存在したが、主たるものは、さまざまな構造のハミ(馬銜、銜、bit)の付いた頭絡(とうらく、bridle)だった。中世のあいだ使用されたハミの多くは、こんにちでも一般的に使用されている小勒(英語版)、水勒ハミ(英語版)(しょうろく、すいろくハミ、bradoon, snaffle bit)、および大勒ハミ(英語版)(たいろくハミ、curb bit)に類似したものだった。しかしながら、それらは多くの場合大仰に飾り立てられており、ハミ環(英語版)(ハミかん、bit ring)やハミ枝(英語版)(はみえだ、bit shank)は頻繁に大きな「ボス(装飾金具)」で覆いをされていた。その一部の構造は、こんにち使用されるものより極端で、きつく作用した。大勒ハミは古典時代にも知られていたが、中世のあいだは14世紀中ごろになるまで一般的には使用されなかった。中世のあいだ使用された一部の水勒ハミの形式は、現代のハーフチーク(英語版)(half-cheek)やフルチーク(英語版)(full cheek)水勒ハミのように下側のチークを伸ばした形状をしていた。13世紀後半までは、頭絡は一般にひと組みの手綱(rein)を備えていた。この時代ののち、現代の大勒(英語版)(double bridle)と類似した、ふた組みの手綱を使うことが騎士のあいだでより一般的となった。これは通常、最低ひと組みは装飾されていた。 拍車(spur)は、この時代を通じ、とりわけ騎士によって一般的に使用された。その関連は頻繁に認められ、騎士叙任を得た際に若者は「拍車を勝ち取った」と言われたという。裕福な騎士や騎乗者は多くの場合、装飾や透かし細工が施された拍車を着けていた。騎乗者のかかとにストラップで取り付けられた拍車は、馬を素早く前進させることを促したり、横方向の動きを指示したりの両方に用いることができた。初期の拍車には、花車(rowel)を比較的騎乗者のかかと近くに配置する短い柄(シャンク)やつなぎ(ネック)が付いていた。拍車の形状がさらに改良されるとつなぎが長くなり、騎乗者側の脚の動きが少なくなって馬に触れることが容易になった。
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