共和制後期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 04:36 UTC 版)
「イタリア本土 (古代ローマ)」の記事における「共和制後期」の解説
「イタリア」という地名は、ストラボンによれば「アペニン半島」と呼ばれる地域のごく一部を指すものであったという。だが時代が流れるにつれ、半島部全体を指す用法へと拡大され、いつしかアペニン半島全体をイタリア半島というようになった。 同盟市戦争の後、前述の通りローマ共和国の地方自治体となったイタリア諸都市であったが、ローマ共和国の行政制度は都市国家制度のままであった。つまり行政上は無数の村落と都市からなるイタリア全域がローマ市という街の「市内」であるという奇妙な状態が形成された。こうした制度の一例として、「ローマ市内に軍を展開してはならない」という法律がそのまま「イタリア全域に軍を展開してはならない」という法律へと拡大された場合が挙げられる。これはルビコン川の渡河というユリウス・カエサルの著名なエピソードの遠因となった。
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