共和国との連携
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 14:54 UTC 版)
「ウィリアム・キッフィン」の記事における「共和国との連携」の解説
1647年にキッフィンは平信徒説教に反対する議会とシティ・オブ・ロンドンの迫害に晒され、平信徒説教を咎められ他の説教師と共に議会の査問委員会にかけられたが、一方で議会の税額査定官に任命されたとも言われている。議会派のオリバー・クロムウェルと婿のヘンリー・アイアトンが進めたチャールズ1世との交渉にも関係していて、9月にハンプトン・コート宮殿で軟禁中のチャールズ1世に接触していたたことが伝えられるが、彼が11月に脱走したため交渉は破談になった。 同時期にリルバーンらが組織した平等派が『人民協定』で政治改革を唱えて議会と対立、キッフィンらパティキュラー・バプテスト教会は当初平等派の支持基盤だったがやがて平等派を非難する側に回り、平等派の主張を社会に有害だと非難した。1649年3月28日にリルバーン、ウィリアム・ウォルウィン(英語版)、リチャード・オーバートン(英語版)ら平等派のメンバーが逮捕されロンドン塔へ投獄された後、4月2日にキッフィンは陳情団を率いてランプ議会へ請願を提出、平等派とは無関係だと強調した上で、政治に関わらず福音の前進に尽くすと共に、イングランド共和国へ貧民救済と不平不満の解消を訴え、請願を受理した議会からは返答としてパティキュラー・バプテスト教会の自由と保護を保証された。これはバプテスト教会の政教分離原則を示すと共に、共和国における社会的地位の安定を獲得したことになる。反対に平等派はバプテスト教会など分離派の支持基盤を失い没落していった。 1651年11月10日にバプテストと独立派や第五王国派の聖職者達と共同で『会衆の宣言』を発表、宗教的多様性を認め共和国への服従を主張した。また政治で決裂したリルバーンとは個人的な付き合いを続け、彼の冒険商人組合(英語版)の非難を受け継ぎ、組合の貿易利益独占に反対して自由貿易を訴えている。共和国では宗教・商売ともに順調な発展を遂げ、オランダ・アムステルダムを中継貿易港として、東方から西インド諸島まで手広く行った貿易が成功して財産を増やし、バプテスト教会も信者を増やして成長していった。政治家としても活動、1656年の第二議会でミドルセックス選挙区(英語版)選出議員になり、航海条例制定時の公聴会や冒険商人組合の毛織物輸出独占貿易に対して自由貿易を主張した。この主張は1649年9月に貿易促進を図る国務会議から指名されたことを受け、それから7年と間隔が空いたが第二議会が開かれる前の1656年5月28日付の書状で記録され、冒険商人組合の独占貿易擁護に経済衰退・組合内の経済格差に伴う不平等・万人の生得権を持ち出して『交易の自由』が損なわれることの3点を挙げて反論した。護国卿となっていたクロムウェルはキッフィンの主張を取り上げず、5月30日に冒険商人組合の擁護と非組合員の交易禁止を布告する一方、組合入会金を200ポンドから半額または4分の1に下げることも布告、多少でも貿易独占の参入の機会が拡大した。 貿易とそれに伴う冒険商人組合との対立は第一ロンドン信仰告白を出版する1年前の1643年から始まり、毛織物輸出で儲けつつも聖書の研究に没頭していた時期だった。毛織物貿易は冒険商人組合の独占事業のため、新興貿易商人は密貿易商人(インターローパー(英語版))に転向してでも参入する道を選んだ。キッフィンもそうした商人であり、密貿易だけでなく冒険商人組合を批判して自由貿易を盛んに提唱していった。石鹸製造業と独立生産者の対立で1653年に後者へ味方して前者の独占事業を非難することもあったが、主な事業は貿易で、共和国の意向に沿って貿易を行い、始めアムステルダムを通した貿易、次に1653年から1654年までフランス・ボルドーからワインをスコットランドへ輸入する貿易に従事した。やがて1655年には西インド諸島にも貿易航路を拡げ、第一次英蘭戦争で共和国と対立したオランダに代わりスウェーデンからピッチ・タールを輸入する貿易にまで範囲を拡張し利益を上げていった。
※この「共和国との連携」の解説は、「ウィリアム・キッフィン」の解説の一部です。
「共和国との連携」を含む「ウィリアム・キッフィン」の記事については、「ウィリアム・キッフィン」の概要を参照ください。
- 共和国との連携のページへのリンク