共和制期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 02:16 UTC 版)
詳細は「古代ローマの軍事史」を参照 共和政ローマ軍(紀元前500年頃)は古代ギリシアに影響される他の都市国家と同じく、市民兵からなる重装歩兵を中核とした。9,000名程度であった初期の市民兵は資産階級に応じて5つの兵種(全てが重装備であった訳ではなく、軽装の兵種もあった)に振り分けられ、この階級区分は平時における政治においても民衆の集会において活用された(ケントゥリア民会)。初期のローマ軍は一貫してファランクスのような防御的な戦いを基本とした。 しかし次第にローマ軍は独自の戦術を模索し始め、紀元前3世紀までにはマニプルスと呼ばれる120名(場合によっては60名)からなる小規模な分隊制度を導入、ファランクス戦術を棄却した。またレギオ(軍団)という軍単位も、30個のマニプルス(3個の隊列に纏められた)と補助兵から編成される4000名から5000名規模の部隊となった。階級による兵種の違いは維持され、エクイテス(騎兵団)・プリンキペス(重装槍兵)・トリアリィ(重装剣兵)・ハスタティ(軽装兵)・ヴィテッリス(散兵)という分類に再編された。新しい共和政ローマ軍は攻撃的な戦術を元に、周辺国に向けて盛んに戦いを仕向けるようになる。 共和制初期、常備戦力として4000名から5000名規模の軍団は3600名から4800名の重装歩兵、数百の軽装兵と騎兵によって編成されるのが望ましいとされた。時に軍団は戦死、負傷、事故、病気、脱走、徴兵の不首尾など様々な要因から兵力を損ない、兵員を揃えられなくなる場合が見られた。後に内戦でグナエウス・ポンペイウスがガイウス・ユリウス・カエサルと相対した戦いでは、カエサル軍はポンペイウス軍に比べてガリア遠征によって戦力を消耗していた。こうした状況下では属州民から召集したアウクシリアの存在が急ごしらえの戦力として重要となった。またこれだけに留まらず、同化が進んでいたとはいえ、未だ属州であったガリア・キサルピナで新しい軍団を編成している。 この時点では未だローマ軍の兵士は市民兵であり、職業軍人ではなかった。彼らは自発的に軍に加わり、自弁で装備(エクイテスならば当然、馬も必要である)を揃えねばならなかった。ウィリアム・ハリスは紀元前200年頃まで農民階級がこうした動員の主軸を担い、死ななければ6度から7度にわたって軍に召集されただろうと推測している。反対に都市部の富裕層は奴隷や解放奴隷と同じく、余程の事情がない限りは動員の対象外であったと見られる。 状況を大きく変化させたのは、ラティフンディウムによる大規模農業でこうした農民達が没落を強いられた事によるものであった。紀元前107年、ガイウス・マリウスは抜本的な軍制改革を成功させ、その一環として召集を市民兵制から装備を配給しての自由志願制へと改革された。改革以降も兵士の多数は人口の主流である農民であったが、新たに没落した農民などの失業者も軍に加われるようになった。職業軍人としての性質が強まった事で、兵役期間に縛られない長期の遠征が可能となった。職業軍人としての給与は紀元前3世紀頃から始まった「恩賞金制度」が実質的に機能した他、戦争の勝利で得た戦利品(金や貨幣など)の分配があり、更に退職金制度もマリウスによって国家からの領地分配が定められた。また同盟軍からの援軍や、属州地での傭兵雇用もアウクシリア(補助軍)と呼ばれる制度へ確立され、主に軽歩兵や騎兵などを担当した。 マリウスの甥であるカエサルと、帝政の創始者であるアウグストゥスの相次ぐ恩給金増額もあって、帝政期には完全に市民兵制度は消失したと考えられている。今や軍団兵は1年につき900セステルティウス、退職金も貨幣で12000セステルティウスを約束されるまでになっていた。
※この「共和制期」の解説は、「イタリアの軍事史」の解説の一部です。
「共和制期」を含む「イタリアの軍事史」の記事については、「イタリアの軍事史」の概要を参照ください。
- 共和制期のページへのリンク