共和国の制度的欠陥
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 16:29 UTC 版)
「ポーランド・リトアニア共和国」の記事における「共和国の制度的欠陥」の解説
1572年にヤギェウォ家の統治者がいなくなると、(共和国の唯一かつ最大の制度的欠陥であるとのちに指摘されることになった)「リベルム・ヴェト(任意拒否権)」が濫用され、かろうじて均衡を保っていた共和国政府は崩壊した。権力は徐々に中央政府から地方のシュラフタ達へと移っていった。 周期的に空になる王座を埋める機会が訪れるたび、シュラフタ達は共和国内に強大な新王朝を築く心配のない外国人の候補者を好んで探し求めた。この政策によって王位についた人物は皆、影響力を持たないか、シュラフタとの恒常的な抗争によって力を衰えさせることとなった。さらには、有名な例外といえるトランシルヴァニアの支配者ステファン・バートリ(在位1576年 - 1586年)を除けば、外国出身の国王はすべて自国あるいは出身家門の利害に共和国の利害関心を従属させようとする傾向があった。この傾向は特にヴァザ家出身の最初の選挙王2人の統治期の政策と軍事行動に顕著であり、彼らの政治方針は共和国とスウェーデンとの間に抗争を引き起こし、それは大洪水時代(1648年)において頂点に達した。そしてこの動乱こそが、共和国を黄金期から衰退期へと転換させることになった。 ゼブジドフスキの反乱(1606年 - 1607年)を転機としてマグナートは権力を増長させ、シュラフタ民主政はマグナート寡頭政にとって代わられた。共和国の政治システムは国外からの干渉に弱く、諸外国から賄賂を受け取ったセイム代議員がリベルム・ヴェトを乱発して改革の試みを潰すべくを行使することも珍しくなかった。こうした弱みは独立国家としての共和国を掘り崩し、近隣諸国が国内を安定させて軍事力を付けていた17世紀半ばから18世紀半ばまでの100年以上もの間、共和国はリベルム・ヴェトが濫用され政治的な麻痺状態・無政府状態においたのである。
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