ラディカル・リフォーメーション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/18 03:59 UTC 版)
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ラディカル・リフォーメーション(The Radical Reformation)とは宗教改革における急進派を指す呼称。16世紀に、ローマ教皇を中心とするカトリック教会の堕落に抗議してプロテスタントの宗教改革が起こされる中で、ラディカル(急進派)に過ぎ、カトリック教会からだけでなく、マルティン・ルター等のプロテスタント主流からも堕落しているとみなされた運動を指す。
ラディカル・リフォーメーションは、ドイツとスイスに始まり、その中には急進的・過激なグループもあらわれた。宗教改革急進派(しゅうきょうかいかくきゅうしんは)とも訳される[1]。かつては熱狂主義者(シュヴェルマー)と呼んで非難され、反宗教改革的なものとされた。ラディカル・リフォーメーションの語は近年のものである。[2]
当時カトリック教会もプロテスタント教会もこれを認めなかったので、ヨーロッパにおいては少数派であるが、脱出して向かったアメリカ合衆国には文献が多い。[3]
分類
渡辺信夫による分類[2]。「福音的」といわれる急進派とそうでないものとを区別することは最小限必要である。」としている。
- ドイツ農民戦争 社会変革 トーマス・ミュンツァー
- アナバプテスト スイスにはじまるフッタライト、メノナイト
- スピリチュアリズム 神秘主義のセクト
- 自由主義思想家 反三位一体であり、キリスト教でも宗教改革でもない。
後継者
アナバプテストの後継者がメノナイト、アーミッシュ、フッタライトら、またはランドマーク派バプテスト教会である。
メノナイトらは歴史的平和教会と呼ばれ、絶対平和主義をとる。渡辺信夫はメノナイトを福音的と認めている[2]。
系統図
他のプロテスタントの教派を含んだ系統図である。表の上がラディカル・リフォーメーション。ただし、アナバプテスト系でランドマーク・バプテストのようにプロテスタントを自称しないグループもある。[4]
脚注
- ^ 倉塚平他編『宗教改革急進派ーラディカル・リフォメーションの思想と行動』にこの訳語があらわれ、カトリック教会の司祭高柳俊一神父もマクグラスの訳書でこの語を採用している
- ^ a b c 第4講ラディカリズムの離反と教会形成の意識1996・05・27渡辺信夫
- ^ Euan Cameron (1991). The European Reformation. New York: Oxford University Press. ISBN 0-19-873093-4.
- ^ 『血まみれの道』
参考文献
- 『宗教改革の思想』アリスター・マクグラス著 高柳俊一訳 教文館 2000年
- 『宗教改革急進派ーラディカル・リフォメーションの思想と行動』「ラディカル・リフォメーション研究史(附・参考文献)」倉塚平編訳 ヨルダン社 1972年
外部リンク
- 「プロテスタント教理史」 渡辺信夫
ラディカル・リフォーメーション
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 06:16 UTC 版)
「メノナイト」の記事における「ラディカル・リフォーメーション」の解説
メノナイトの初期の歴史は中央ヨーロッパのドイツ語やオランダ語を話す地域のアナバプテストに始まる。ドイツ語ではトイファー(Täufer)と呼ばれる。現代のメノナイトの先駆者は、宗教改革の一潮流であった。その最もはっきりした違いは幼児洗礼を拒否したことであり、西ヨーロッパで生まれたほとんど全ての幼児がカトリック教会で洗礼を受けていたので、宗教的にも政治的にも重大なことであった。メノナイトの他の重大な神学的見解は、カトリックあるいはマルティン・ルターやフルドリッヒ・ツヴィングリのような他の宗教改革者の見解に対する反論の中から発展してきた。 ツヴィングリの宗教改革の追随者は、生まれてすぐ教会に属することを求めるのは新約聖書の記述に反していると感じた。教会は完全に政府とは切り離されるべき(自由教会の伝統の先駆)であり、イエスを信じ、イエスの教えに従って生きると自ら告白する者のみ教会に加わるべきと考えた。1525年1月21日、小さな集会が開かれ、コンラッド・グレベル、フェリクス・マンズおよびジョージ・ブラウロックが他の12人の仲間と共に、互いに洗礼を授けあった。この集会がアナバプテスト運動の始まりであった。当時の宗教界では多くの急進的な集団が乱立し、階級、国、終末論、性的放縦、断固とした放縦から極端な貞節にまでおよぶ事柄などについて、さまざまな主張を説いた。これらの運動を纏めてラディカル・リフォーメーションと呼ぶことがある。ただし、三位一体を否定するまでに至ったグループは今日のキリスト教から区別される。。 多くの政府や、プロテスタント・カトリック双方の宗教指導者達は、教会員の自覚に基づく教会制度は危険であると考えた。彼らは、アナバプテスト派の一部過激派によるミュンスター反乱の報告に関心をそそられ、軍隊に加わって運動家と戦い、迫害、国外追放、拷問といった手段も用い、時には異端者として処刑した。 各領邦教会の最善の努力にも拘わらず、運動は西ヨーロッパ中、特にライン川地域にゆっくりと拡がった。初期のアナバプテスト指導者の多くが、迫害に遭い殺された。1530年までに運動を起こした指導者の大半がその信条を捨てることを拒んだために殺された。多くの者は、神が如何なる理由でも殺人や力の行使を許すはずがないと信じ、それ故に自衛のために進んで戦おうとはしなかった。これら平和主義に立つ教派はストラスブールのような中立的都市や国に逃げ込んで生き残った。しかし、彼らの安全はしばしば脆いものであり、同盟関係の変化や侵略によって迫害が始まることもあった。バーテンバーガー派のようなアナバプテストの集団は、進んで戦おうとした故に殲滅された。これはアナバプテストの神学の漸進的変化の中で大きな役割を演じた。 アナバプテスト運動の初期に、オランダのカトリック神父メノ・シモンズは、運動のことを聞いて自らのカトリック信仰について再考を始めた。シモンズは聖変化に疑問を持ったが、カトリック教会から去ることを躊躇していた。アナバプテストの一員であったシモンズの弟が仲間といるときに攻撃を受けて防衛を拒んで殺されたことで、シモンズの考えは影響された。1536年、40歳の時に、シモンズはカトリック教会を離れ、その後直ぐにアナバプテスト運動の指導者になった。結果、シモンズは終生お尋ね者となった。シモンズの名前が分散していた非暴力アナバプテストの間に知られるようになり、シモンズはその組織化と団結に貢献した。今日では歴史的平和教会と呼ばれる。
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