モリエール=コルネイユなのか?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 04:11 UTC 版)
「モリエール」の記事における「モリエール=コルネイユなのか?」の解説
ピエール・ルイスによって唱えられた「モリエール=コルネイユ説」は、結論から言えば今日においては、ほとんど無視されている学説である。「モリエールのものとされている作品のほとんどは、実はピエール・コルネイユの作品であり、モリエールは単に名義を貸しただけに過ぎない」というのがこの説の概要である。 ルイスは詩人として広く世に知られていたが、同時に博覧強記の文献学者でもあった。研究者としての彼は初め、古代ギリシアをその対象としていたが、後半生の関心はフランス古典主義文学に移っていた。とくにコルネイユへの傾倒ぶりは著しく、作品を隅々まで仔細に亘って分析し、その語法、詩法、文体、リズムなどを完璧に知り尽くしていたのであった。その結果、彼はモリエールの作品とされている『アンフィトリオン』の一節がコルネイユの詩句に酷似していることに気付き、精読を行った結果、同作品の作者はコルネイユ以外に考えられないと結論付けたのである。ルイスはこの発見に基づく新説を、若いころからの友人であったポール・ヴァレリーに聞かせたが、冷たくあしらわれたので、関係が冷え込んだと伝わっている。 友人には受け入れられなかったが、この新説を広く世に問うべく、ルイスは1919年8月、雑誌上で『コルネイユはアンフィトリオンの作者か?( Corneille est-il l'auteur d'Amphitryon? )』と題した論文を発表した。当然激烈な反発が寄せられたが、これは説の内容が奇抜であったからだけではなく、ルイス自身への恨みもこもっていた。かつて、ルイスは自作である『ビリティスの歌』を古代ギリシア女流詩人の作品と偽って発表し、多くの著名な古典学者を含む人々を欺くことに成功していた。この件によってルイスは詩人としては名声を獲得したが、文献学者としては信用を失っており、その時の影響がここにきて重くのしかかったのである。当時欺かれた学者たちはその時にかかされた恥を忘れてはいなかったし、多くの者は「またルイスがふざけた説を発表して、我々を担ごうとしている」といった具合に、冗談としか受け止めなかったのである。 このような反応にルイスは大いに幻滅したが、しかし諦めず、寄せられた反論に答えるために「アンフィトリオンの作者」と題した論文を発表した。ルイスはこの論文において「『アンフィトリオン』の作者はコルネイユ以外にあり得ないと主張し、証明しなければならないのは、なぜその作品にモリエールとの署名が入っているのか、それのみであると主張した。彼はこの説の裏付けとして、モリエールとコルネイユに関する伝記的事実を例証として示し、『アンフィトリオン』がコルネイユの手によるものであることを証明しようと試みた。 まず、モリエールが演劇の世界に飛び込んだ1643年から、死に至る1673年までの30年間に亘ってコルネイユの作品を演じ続けた俳優であったことを指摘し、コルネイユとモリエールという2人の偉大な劇作家が密接な関係にあったことを強調した。さらに『アンフィトリオン』の着想時期をコルネイユが喜劇の形式を創造し終えた1650年頃と考えた。1650年当時に28歳だったモリエールの書いた文章といえば10行程度の領収書が遺されているのみだが、この領収書にさえも初歩的な文法ミスがあることを指摘し、この程度の言語運用能力しか持たない男がアレクサンドランを用いて、しかもギリシャ神話に題材を求めた戯曲を執筆することなど到底不可能であると結論付けたのである。 「町民階級の者としては最上の教育を受け、大学で法律を学んで弁護士資格まで有したが、演劇への熱意を抑えられずに身を投じた」というのがモリエールの青年時代における通説であるが、ルイスはこれを否定して、「14歳で初等教育を終え、読み書きを学んだが、ラテン語やギリシア語は大嫌いで身に着けなかった」と考えた。そもそもモリエールの生涯については、彼が南フランス巡業を終えてパリへ帰還するまで不明な点が多く、ルイスもこの点に基づいて推論を組み立てている。さらにモリエールとその劇団がパリに帰還する前に、半年間コルネイユの居住地であったルーアンに滞在していたことに着目し、「劇作家を志したモリエールは、同地でコルネイユに弟子入りして作劇術を学び、劇作家としてデビューすることになった」と考え、「モリエールはコルネイユの生んだ傑作である」と結論付けたのだった。 モリエール風の七つの喜劇の型を創造した後に、偉大なコルネイユは六ヶ月で、その巨人のような手でもって、自分には似ていないモリエールという一個の人物を作り上げたのである。……モリエールはコルネイユの生んだ傑作である。 ルイスによれば、当時のコルネイユは才女気取りの女たちに自作を酷評され、うんざりするあまりに劇作から遠ざかっており、自分が作り上げたモリエールという劇作家を使って喜劇を発表したのだという。モリエールの名で発表された一連の喜劇を仮に自作として発表していたならば、上演されない恐れがあったために、モリエールの名を借りたのとだという。彼の説が正しいとすれば、パリ帰還後のモリエールの作品が『才女気取り』という題名であるのは、極めて示唆に富んでいる。散々自作を批判してくれた才女気取りの女たちに激烈な風刺を投げつけることで、やり返したことになるからである。その後も次々とこの件に関して論文を発表し、『ドン・ジュアン』、『タルチュフ』もモリエールの名を借りて、その実コルネイユが執筆した作品だったとし、『女房学校』、『人間嫌い』、『女学者』といった名作も、その創作にコルネイユが関わっているのではないかと疑問を投げかけた。ルイスは、「コルネイユの作品の詩句に漲る力強さと独自性を感受出来うる者は、それを見分ける事は容易である。モリエールの作品には、屡々平板さと弱い部分が見受けられ、コルネイユの詩句と見紛うべくもない」と主張した。そして、モリエールの『タルチュフ』とコルネイユの『詐欺師』のテクストを比較検討し、『タルチュフ』には「二様の言葉遣い」が見られるとし、コルネイユの手による本来の詩句と、モリエールが上演の必要上から演出家として書き加えた稚拙な詩句とがあり、詩的文学的価値からして両者は同じレベルにはない。つまりはモリエールの作とされる喜劇の中で優れた詩句は、比類なき詩人にして劇作家のコルネイユの、稚拙なる部分はモリエールの筆になるものだ、と言う説を唱えたのである。 詩人たちは、コルネイユの族である詩人たちは、それにすべてのコルネイユの愛好家たちは、一人残らずタルチュフとポリュークトがひとつの頭脳から生まれた両極端であることを理解している。 モリエールの作でもなく、トマ・コルネイユの作でもなく、ピエール・コルネイユの『ドン・ジュアン』……。 私は『ドン・ジュアン』がコルネイユの作であることを知っている。 一六六〇年コルネイユは自分の作品を抹殺し、抗いがたいほど喜劇を好むと宣言した一六四三年の序文を、もはや二度と印刷に付することはない。一六六二年にはコルネイユは、ついに「彼の人生のドラマ」つまりはモリエールの名を冠したほとんど全ての作品を、上演にかける決意をする。彼はそれを完全な秘密裡におこなうであろう 人々がいずれモリエールの名を冠することのできなくなるコルネイユの詩句が、2万行はある。 ルイスはモリエールを貶めようなどと言う意図は毛頭なく、そればかりか彼はモリエールを優れた演劇人としてつとに認めてはいた。しかしながらこのような、いかにも詩人の独断とも取れる説を主張していては、彼の意図が如何であれ、いくらルイスがコルネイユに精通した文献学者であり、優れたコルネイユ研究家であったとしても、「コルネイユのみが劇作家として優れており、モリエールは単に凡庸な劇作家に過ぎない」と考えていると思われてしまうのは避けられない。 しかも、 フランスの詩は四人の人物によって創られた、ロンサール、コルネイユ、シェニエ、ユゴーがそれである。 あらゆる国の中で唯一、フランスがコルネイユ的な国であることを、フランスはどうして忘れることができようか?。 コルネイユはギリシア人にとってのホメロスにも比すべき巨大な詩人……、その資質においてホメロスにもっとも近い……。 その創作全体は膨大なものであって、百篇もの、あるいはそれ以上の数の劇作品の作者であった可能性がある。ただ、彼の名を冠せられぬままに世に出ている劇作品が、実は多く存在する。 このような事柄を述べていれば尚の事である。 実際、この説はモリエールの愛好家や研究家たちを激昂させたし、第1作目の論文『コルネイユはアンフィトリオンの作者か?』を冗談としてしか受け止めていなかった者たちも、ルイスが本気であることに気付くと、嘲笑と罵倒へと反応を変化させた。ソルボンヌ大学の教授や、モリエール研究家たちは口を揃えて「ピエール・ルイスはついに狂った」と声をあげた。コメディー・フランセーズの俳優たちは特に過激で、自分たちの守護神とさえいえる神聖なモリエールを穢されたとの思いからか、ルイスを弾劾し、法廷に引きずり出すべきだと主張する者さえ出る始末であった。ルイスを擁護しようとするものなどおらず、孤立無援で、四面楚歌であった。敵対者たちが聞く耳を持っていたならまだしも、彼らはただただ感情的であり、冷静に学問的議論をしようとする者など一人もいないのであった。 ルイスはこうした世間の反応にひどく失望し、侮辱を感じ、ついに論争に応じなくなった。未公表であったその他の膨大な自説の証拠や資料は、人々に示されることなく、散逸してしまったのである。こうしてルイスは意気喪失し、失意のうちに死んでいくのだが、その彼が唱えた説もまた、狂人の唱える説として笑殺のうちに闇に葬り去られたのであった。
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