ポール・マッカートニーとの関係
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「ジェーン・アッシャー」の記事における「ポール・マッカートニーとの関係」の解説
1963年、ジェーン・アッシャーは初めてビートルズと対談した。BBCラジオタイムズのカメラマンは、ビートルズにジェーンとポーズをとるよう頼んだ。その後、ジェーンとポール・マッカートニーとの5年間の関係が始まった。ジェーンは、「レノン=マッカートニー」作としてクレジットされているこの時期の代表曲、『オール・マイ・ラヴィング』、『アンド・アイ・ラヴ・ハー』、『君はいずこへ』、『ユー・ウォント・シー・ミー』、『恋を抱きしめよう』、『ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア』、『フォー・ノー・ワン』のような、一連のポール自身が作曲したビートルズ音楽に非常な影響を与えた。この期間に作曲されたポールのラブソングは、ほぼ全てジェーンとの関係が題材になっているとも言える。同時期に「レノン=マッカートニー」コンビは、ジェーンの兄ピーターのために、彼が活動するバンド「ピーター&ゴードン」のトップヒット曲『愛なき世界』を書いている。 ポール・マッカートニーは、1964年から1966年までの間、ロンドンのアッシャー邸に間借りしており、この期間にここの音楽練習用の部屋で数多くのビートルズソングが作曲された。アッシャー邸は、ポールにとって知的な刺激の場所となった。労働者階級出身のポールは、ここで上流階級のゆったりとした稀な雰囲気を味わう事が出来た。シンシア・レノンの回想によれば、ポールは自分のガールフレンドとしてジェーンを非常に誇らしく感じ、また彼女に対して非常に価値を置いていた。またマリアンヌ・フェイスフルの回想によれば、レストランでポールが窓を開けると、ジェーンがすぐにそれを閉めてしまうと言った行動を延々と繰り返していたが、特に言い争う風でもなく、ただ少なくとも「あまり仲が良い様には見えなかった」様である。 ポールは、ジェーンと交際している間も、結婚前なら許されるであろうと言う思い込みから、他の女性と一夜を過ごすと言う行為を止めなかった。ジェーンとポールは、1967年12月25日に婚約発表し、1968年2月~3月、二人でインドに旅行した。その後ジェーンがブリストルの旅行から予告なしに戻り、ポールとフランシー・シュワルツ(英語版)がベッドを共にしているのを目撃した後、一旦は関係の修復を試みたものの、結局1968年7月20日のBBC放送において、ジェーンはポールとの婚約破棄を発表した。ジェーン自身は、ポール及び彼と過ごした期間についてコメントする事を一貫して拒否し続けている。この為、1968年に出版されたハンター・デービス(英語版)著作の伝記「The Beatles」にジェーンの記載が無かったと言われている。
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ポール・マッカートニーとの関係
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「オノ・ヨーコ」の記事における「ポール・マッカートニーとの関係」の解説
ポール・マッカートニーが「ビートルズ解散は、ヨーコのせいではなかった」と発言した ことに、オノ・ヨーコは感謝の意を表明した。またポールとリンゴ・スターがグラミー賞の功労賞を受賞した際には、客席でうれしそうに体を揺らしていた。これらの事実から、ヨーコとポールの人間関係は、良好であると判断するのが妥当である。 なお、争点の一つとなっていたのは、ビートルズの楽曲クレジットに関する問題である。ビートルズの活動中、ジョン・レノンかマッカートニーの書いた曲は、どちらが書いても、また共同で書いても、すべて「レノン=マッカートニー」名義とされた。レノンの死後、マッカートニーは、彼単独で、または彼主導で書いた「イエスタデイ」などの曲について、クレジットの順序を「マッカートニー=レノン」と変えようとした。ヨーコはこれを認めず、レノンの生前に2人が取り交わした協約に違反すると批判した。マッカートニー側はこれに反論、そのような協約は存在しなかったとする。他のビートルズのメンバー2人が、クレジットは従来どおりにとどめるべきだと意見すると、マッカートニーは要求を撤回した。しかし2002年、マッカートニーはアルバム『Back In The US Live 2002』で、ビートルズ時代の19曲について「作詞作曲ポール・マッカートニー、ジョン・レノン」と記したことからこの論争が再燃する。 しかし1995年、ヨーコは「ヒロシマ・スカイ・イズ・オールウェイズ・ブルー(イタリア語版)」をマッカートニーとその家族、ショーン・レノンとで共同制作した。これは広島原爆投下50周年を祈念する曲であった。ヨーコについてマッカートニーは「彼女は冷たい女だと思っていたけど、間違っていたよ。(中略)その正反対だった。(中略)彼女はただ、断固として自分自身であろうとしているだけなんだ。たいていの人よりもね」と述べている。 2005年にQアウォード(英語版)を受賞したとき、ヨーコはマッカートニーの作曲を批判しているともとられるコメントを述べ、メディアで物議をかもした。レノンはあるとき自らの作曲に不安を抱き、「なぜ他のミュージシャンはいつもポールの曲をカバーして、僕のはしないんだろう」と訊いた。「あなたは優れたソングライターよ。あなたが書くのは『スプーンを手に六月』("June with Spoon")みたいなのじゃないわ。あなたは優れたシンガーだから、多分ほとんどのミュージシャンは怖くてあなたの歌をカバーできないのよ」 とヨーコは答えたという。ヨーコの発言に明白な批判の意図があったかは、疑問が残る。ヨーコは後に「自分の言葉はジョンを慰めようとしたもので、ポールを攻撃するものではなく、他意はなかった」と声明を出している。また、自分はマッカートニーを尊敬しており、マスコミが自分の言葉を文脈から切り離して報道したのだと付け加えた。 さらにヨーコは「私とポールが喧嘩してるとか、そんなのんきな話題が人々には必要なのね。この世の恐怖から逃れるために。でも、それはもはや真実じゃない。(中略)私たちは過去、何度も衝突してきたわ。でも今はジョンのパートナーだったポールを尊敬してるし、ポールはジョンの妻だった私を尊敬してるわ」とも述べている。 また、2001年の『Mojo』誌インタビューでビートルズの曲で何が一番好きかと問われた際には、「ビートルズ時代の作品に関しては、私は実はジョンの曲よりもポールの曲のほうが好きなのです」と打ち明けている。 2008年6月1日には、アンフィールドで行われたマッカートニーのコンサートに姿を見せている。このコンサートでマッカートニーはレノン作曲の「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」(前半と後半がレノンの作、中間部はマッカートニーの作という3部構成になっているが、その中間部まで)〜「平和を我等に」のメドレーを披露した。
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ポール・マッカートニーとの関係
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「ジョン・レノン」の記事における「ポール・マッカートニーとの関係」の解説
ビートルズ解散直後の二人の確執はファンやマスコミにも知られていた。解散後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあったり、ポールがニューヨーク滞在中、ジョンに電話して口論になったりするなど深い確執が存在したが、ビートルズのアラン・クレインとのマネージメント問題、アップルレコードの管理など一連の訴訟が解決に向かうなか、1970年代も中ごろになると、ポールが自分のバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行った際には時折ジョンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。また1974年にはスティーヴィー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行い、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。現在では、ポールはビートルズの楽曲を歌う際にジョンのパートを歌ったり、ジョンのソロ曲をカバーするなどしている。 ポールがジョンの家を訪れたある日、テレビ番組のネタで「『サタデー・ナイト・ライヴ』にビートルズを出演させるとしたらいくら払う?」「一流クラスの標準ギャラで3200ドル」という話をした。2人は盛り上がり、「ダウンタウンならすぐ近くだ。これから2人で乗り込もうぜ!」と意気投合し、盛り上がった。実現はしなかったがポールは「昔に戻れたみたいでとても嬉しかった」と述べている。 またジョンは「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ。他の奴が言うのは許さない」と発言した。ハリー・ニルソンや秘書・メイ・パンにでさえ、ポールの悪口を言うことは許さなかったという。またジョンが殺害された1980年12月8日には、取材にて「人生のうちで2回、すばらしい選択をした。ポールとヨーコだ。それはとてもよい選択だった」と述べている。
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