ポール・マッカートニーの脱退
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「ビートルズの解散問題」の記事における「ポール・マッカートニーの脱退」の解説
レノンは、放置されていた「ゲット・バック・セッション」をアルバムとして形にするようフィル・スペクターに依頼する。このことはマッカートニーには知らされていなかった。スペクターは渡された素材を基に編集作業を進めたが、マッカートニーの曲「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」に、マッカートニーの意図に反した過剰なオーバー・ダビング(コーラスやオーケストラなど)を施した。 『レット・イット・ビー』発売前にこの事実を知ったマッカートニーは激怒し、何とかして発売を差し止めようとしたがそれは果たせず、自身のアルバム『マッカートニー』を先にリリースするようにした。 もともと発売日が決まっていたマッカートニーのソロ・アルバム『マッカートニー』の発売日を変更されそうになり、ソロ・アルバムでさえもクレインの管理下にある状況に激怒した。話し合うためにマッカートニーのもとにスターが差し向けられたが、マッカートニーはその際、スターに向かって辛辣な言葉を吐き捨てた。 その後、1970年4月10日にデイリー・ミラーに掲載されたインタビューで「今後ビートルズのメンバーと創作活動をすることはない」と発言し、マスコミから「脱退宣言」だと受け取られた。こうして実質的にビートルズは解散した。 マッカートニーは1971年2月18日、ロンドン高等裁判所にビートルズのパートナーシップ解消を求める訴えを起こす。この訴えはクレインの活動を封じることが目的であった。上記のように既にレノンはビートルズを辞めてしまい、すでに解散状態のバンドのメンバーの収入も、アップル設立時の「4人の収入は全てアップルに管理され、平等に分配される」という契約に縛られていた。4人がビートルズとしての活動以外で得た収入もクレイン(アブコ)が管理するアップルに支払われていた。クレインは用途不明の手数料をアップルに要求し続け、メンバーが稼いだ収益を吸い取っていた。この状況ではビートルズの財産が全てクレインに握られてしまうため、契約を法的に無効にするため、マッカートニーは裁判に持ち込んだ。 裁判ではクレインを信用することは出来ないという訴えの根拠に「アルバム『マッカートニー』の発売を遅らせようとしたこと、「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」を許可なしに改変したこと、アップルが製作した映画『レット・イット・ビー』を無断でユナイテッド・アーティスツに譲渡したこと」を挙げた。 クレインはアメリカの印税契約を引き上げ、その増加分の収益から20パーセントを手数料として受け取るはずであった。しかし、クレインは印税全体の収益の20パーセントを不正に請求しており、すでに支払い済みであった。これらの不正が法廷で明らかにされ、判事は「クレイン氏は口が達者な2流のセールスマンである」とし、「ビートルズの財政を管理出来る人物ではない」との判決を下し、パートナーシップ解消を認めた。こうしてビートルズは正式に解散した。 1977年、アップルがクレインに420万ドルを支払い、クレインとの関係を完全に清算した。
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