「ゲット・バック・セッション」
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「ビートルズの解散問題」の記事における「「ゲット・バック・セッション」」の解説
詳細は「レット・イット・ビー」を参照 1969年1月に行われた「ゲット・バック・セッション」はレコーディング風景やライヴ・セッションをドキュメンタリーとしてフィルムに記録し、レコーディングしたもので、後に映画『レット・イット・ビー』として劇場公開され、アルバム『レット・イット・ビー』としてリリースされたが、ビートルズ末期の人間関係を窺い知ることの出来る重要な記録となっている。 このセッションは、もともとマッカートニーの発案で行われた。ビートルズは1966年にコンサート活動を停止した後、1967年発表のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で揺るぎない評価を得たが、その後マネージャーのブライアン・エプスタインが死去してからはバンドとしての結束が希薄になっていき、このセッションの前年に発売されたアルバム『ザ・ビートルズ(ホワイトアルバム)』では、各メンバーが自分の作った曲を自分だけで(あるいはメンバー以外のミュージシャンを参加させて)録音するというパターンが増え、さながらソロ作品の寄せ集めのようなアルバムとなった。こうした状況に危機感を覚えたマッカートニーはひとつの解決策として自分たちがバンドとして一体になっていたころの原点に戻る(ゲット・バック)ために、昔どおりに「観客を前にしたコンサート」を行なうことを提案した。しかし、他のメンバーは興味を示しはしたものの、すぐに規模や内容、開催時期について意見の食い違いを見せる。最終的には「スタジオでのコンサートを収めたテレビ番組を作る。そのためにいくつかの新曲を用意し、曲を仕上げていく過程も収める。コンサートで演奏するという前提で、新曲は複雑な編集作業を伴わないシンプルなものにする。音源はレコードとして発売する」ということで合意した。 1969年1月2日、トゥイッケナム映画撮影所でリハーサル・セッションが開始された(映画撮影所に録音機材を持ち込んで録音スタジオに仕立てた)。しかしセッションが進むにつれて様々な問題が露呈し、1月10日にはハリスンがビートルズ脱退を宣言してスタジオを出ていってしまう。その後4人の間で何度か話し合いが持たれ、1月20日からは彼らのアップルの社屋ビルに場所を移し、「次のアルバム(タイトルは、最も出来が良いと思われていた曲から取って"Get Back"になる予定だった)のレコーディング・セッション」としてレコーディングが開始された。また、ハリスンがバンド内の緊張状態を和らげるためにキーボーディストで旧友のビリー・プレストンを参加させた。 ビリー・プレストンの参加によりメンバー間の緊張も和らぎ、アップルでのセッションは比較的順調に進んだ。そして、1月30日にアップルビルの屋上で事前予告なしに公開ライヴが行われた後、1月31日にスタジオ・ライヴが行われ「ゲット・バック・セッション」は一応の終りを迎えた。 このセッションで撮影・録音された膨大な映像・音源は、(シングルとして発売された一部の音源を除いて)しばらくの間発表されることはなかったが、アルバム『アビイ・ロード』の発売後、1970年に映画『レット・イット・ビー』、アルバム『レット・イット・ビー』として世に出ることになった。 ただしこれらの作品は、後からかなりの編集を施されたものである。特にアルバム『レット・イット・ビー』は1970年1月に追加録音されたあと、プロデューサーのフィル・スペクターに託され3月23日から4月2日にかけて再制作された。フィル・スペクターはアルバム"Get Back"の本来のコンセプトであるオーヴァー・ダビングをしないという方針を破棄し、セッション・ミュージシャンによるオーケストラやコーラスをオーヴァー・ダビングして完成させた。2003年にリリースされたアルバム『レット・イット・ビー...ネイキッド』には、フィル・スペクターによる編集のないヴァージョンを聴くことが出来る。
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