ヘスによる単独飛行
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「秘儀及び所謂疑似科学に対する行動」の記事における「ヘスによる単独飛行」の解説
1940年の夏、ヒトラーはイギリスに対してかなり中途半端な和平案を試みイギリスの世論と内閣はヒトラーの申し出を拒否した。この時期に、国民から比較的人気のあったヘスは「平和使節団」の構想を練り、師匠のカール・ハウスホーファーや息子のアルブレヒト・ハウスホーファーと話し合いながら「両ゲルマン民族の流血を食い止める」というイギリスへの単身飛行の計画を練ったといわれている。 ヘスは1941年1月、仲間のエルンスト・シュルテ・ストラトハウスに個人的なホロスコープを書いてもらい、この占いでは、1941年5月10日がヘスにとって「平和のための旅の有望な日」になると予言されていた。この日は「牡牛座の満月と6つの惑星」が一致したと言われている。 歴史家のManfred Görtemakerによると、ヘスは3回の飛行を試みたが、いずれも技術的な問題や悪天候のために失敗したと仮定している。最初の失敗は1940年12月21日であり、残りの2回は1941年1月と2月に失敗したと言われている。3月、ストラトハウスは、自分が描いたホロスコープをミュンヘンの占星術師マリア・ナーゲンガストに提出しており、ナーゲンガストは、占いの作成に対して50ライヒスマルクを受け取ったと言われている。占星術師のWaltraud Weckerleinは、1949年に出版された著書『Hitlers Sterne lügen nicht(ヒトラーの星は嘘をつかない)』の中で、ナーゲンガストがヘスに「5月には命の危険なく飛ぶことができる」と助言したと述べており、またヘスはナーゲンガストの「顧客」であったというが確証はない。 1941年5月10日18時10分、ヘスはアウグスブルク近郊のハウンシュテッテン空軍基地からメッサーシュミットBf110に搭乗し、スコットランドへ向かった。ヘスはダンガベル城において、ダグラス・ハミルトン公爵と和平交渉を行う予定であり、これは、アルブレヒト・ハウスホーファーの友人だったハミルトンがウィンストン・チャーチルの敵対者だと勘違いしていたためといわれる。彼の和平提案は関心を持たれず、イギリスの捕虜となった。出発前、ヘスはヒトラーに宛てた手紙を副官のカールハインツ・パンシュ(de)に託した。 ヘスがイギリスへの単独飛行を決断した動機については、様々な憶測がある。この飛行は現在でも世界史の謎のひとつであり、憶測や陰謀論がなされる。歴史学者のライナー・F・シュミットによれば、ヘスは英国秘密情報部(MI6)の意図的な陰謀の犠牲者であったとし、ヘスはハミルトンと文通していたと言われているが、その手紙はMI6により偽装されたものと言われている。第二次世界大戦中、イギリス海軍情報部に勤務していたジャーナリストのDonald McCormickは、オカルト信奉者のヘスに飛行を促すために、英国諜報機関が捏造したホロスコープを使ったというフレミングの声明を発表している。ヘスに近いオカルトサークルは組織的に浸透し、1941年の春にはスイスのシークレット・サービスの連絡先から適切に作成されたホロスコープが送られ、ヘスは「平和の使者」になることを促されたといわれる 。ナチの高官の中で占星術を信じ、イギリスとの和平交渉を目指していたヘスはこのようなクーデター計画の最有力候補と見なされていたためであった。 ヘスの単独飛行の翌日、彼の副官であるパンシュはベルクホーフでヘスからの手紙をヒトラーに手渡した。その際のヒトラーの反応にはさまざまな証言がある。歴史家の多くは、ヒトラーの反応を怒りと落胆であったと表現しており、ゲッベルスは自らの日記に「総統は完全に粉砕された」と記し、全国報道局長のオットー・ディートリヒによれば、ヒトラーは手紙を読んだ際に「とてつもない動揺に襲われた」としている。アルベルト・シュペーアはこの時のヒトラーから「言葉にならない」ほとんど「動物のような音」を聞いたと述べており、ヒトラーの主任通訳のパウル=オットー・シュミット(de)は、この状況を爆弾の衝撃になぞらえている。ランツベルクの獄中での長年の同志でもあったヘスにヒトラーは「あいつが海に落ちることを願う」とこぼしたと言われている。 2011年にロシア連邦国立公文書館で発見されたピンシュの発言によると、ヒトラーの反応はこれらの証言とはまったく異なるものと言われ、ヒトラーはこの報を聞いても呆然とすることなく、むしろ冷静に聞いていたといい、ピンシュはヒトラーがヘスの計画に内通しており、飛行は「英国との事前の合意」に基づいて行われた、とも主張している。 1941年5月12日午後9時、党の公式声明として大ドイツ放送(de)の全局で最初の放送が行われ、声明はヒトラー自身が策定したものと述べられた。 党同志ヘスは、何年も前から進行していた病気のために、総統から飛行機への搭乗を厳しく禁じられていたが、その命に反して、最近になって飛行機を手に入れていた。5月10日午後6時頃、党同志ヘスはアウグスブルクから再び飛び立ち、今日まで戻ってきていない。残された手紙には、残念ながらその混乱の中に精神衰弱の痕跡が見られ、党同志ヘスが妄想の犠牲者であったのではないかと危惧される。したがって我々は残念ながら、党同志ヘスが飛行中にどこかで墜落したか、事故に遭ったという事実を再認識しなければならない。 放送の内容は、ヘスがヒトラーに宛てた手紙の結びの文を参考にしていたといわれ、ヘスの妻イルゼによると、夫はその中に次のように書き込んでいたという。 総統閣下、私の試みが失敗しても、運命が私に不利になっても、あなたにもドイツにも悪い影響を与えることはありません。あなたはいつでも私を処分することができます。私が狂っていることを宣言してください。 翌日の朝、イギリスのラジオはヘスの単独飛行の件を報じた。 第二次世界大戦後、ニュルンベルク裁判において当時、ポーランド総督府の総督であり、党の法務部長でもあったハンス・フランクが記したメモによると、ヒトラーは1941年5月13日の午後、急遽、党の全国指導者と大管区指導者を召集し、ヘスの飛行について、ヒトラーは怒りを込めてこう述べたという。 ヘスは何よりも脱走兵であり、もし私が彼を捕まえることがあれば、彼は国家の一般的な反逆者としてこの行為を償うことになるだろう。ちなみに、この計画はヘスが影響下に置いていた占星術師の集団によって最も強く誘発されたように私には思える。したがって、この占星術師らの戯言を根本的に解消する時が来たのだ。 ゲッベルスはこの件について、1941年5月14日付けの日記にこう記している。 このような愚か者が総統の側近であった。想像するのも難しいことだ。彼の手紙には、中途半端なオカルティズムが漂っている。ハウスホーファー教授とその妻と「ヘス老師」は悪霊のような存在である。彼らは「偉大なる者」を人為的に成そうとしたのだ。また、幻覚を見たり、星占いを行うなどの、似たようなデマもあった。それらが国内を支配しているのだ。彼の健康的な生活とその草食的な雰囲気が全てを物語っている。 同日、ドイツの全日刊紙は「ヘス事件の解明」という見出しで、ヘスがスコットランドに上陸し、妄想に悩まされ、最終的にはその犠牲になったと何度も繰り返し報じた。 ルドルフ・ヘス同志は、党内でもよく知られているように、何年もの間、肉体的にひどく苦しんでいたが、最近では、磁器や占星術師などのさまざまな手段に頼ることが多くなっていたのである。彼がこのような行動をとる原因となった精神的な混乱をもたらしたことについて、これらの人物もどの程度非難されるべきかは、今後明らかにされるであろう。 また、5月14日、ボルマンはヒトラーが「国民を愚かさと迷信に誘惑するオカルト、占星術師、疑似医療などに対して最も激しい処置を望んでいる」とハイドリヒに電報を送っている。 翌日、国民啓蒙宣伝宣伝大臣として、ヨーゼフ・ゲッベルスは、すべてのオカルト、透視、テレパシー、または占星術のプレゼンテーションを禁止する命令を出した。5月16日、彼は日記に次のように記している 。 私はオカルト、透視などに対して常々、厳命を下している。このあいまいな戯言は、ついに根絶されつつある。ヘスの最愛の人種である「奇跡の男」たちは、今や鎖にかけられるだろう。 戦後に見つかったボルマンからヒムラーにあてた手紙には、次のように書かれている。 文書から分かるように、ハウスホーファーがいわゆる正夢について彼に話し、ストラトハウスとナーゲンガストが彼のために幸福と成功を予言した後、ヘス自身が会話の成功の可能性を100パーセントまで確信していた。ヘスはそういうことを信じていたし、成功が三方から予言されてからは特に信じ込んでいた。 ヘスによる一連の奇妙な行動は、彼が単独で飛行した後、ナチの宣伝によって二重に利用された。一方では、占星術師やオカルティストの影響を受けた「混乱した」「操られた」一匹狼の「逃亡」の釈明にもなっており、この戦略は、おそらくボルマンが考案したものとされ、内外の政治的影響を最小限に抑えるためのものといわれる。一方で、これらはその後のオカルト全般に対する抜本的な弾圧を正当化するものでもあった。
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