『國民新聞』の創刊と平民主義とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 『國民新聞』の創刊と平民主義の意味・解説 

『國民新聞』の創刊と平民主義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:09 UTC 版)

徳富蘇峰」の記事における「『國民新聞』の創刊と平民主義」の解説

大江義塾時代蘇峰は、リチャード・コブデンジョン・ブライトマンチェスター学派呼ばれるヴィクトリア朝自由主義的な思想家学び馬場辰猪などの影響受けて平民主義思想形成していった。1882年明治15年)夏に上京し慶應義塾に学ぶ従兄江口高邦に伴われ福澤諭吉面会蘇峰のいう「平民主義」は、「武備機関に対して生産機関」を重視し生産機関を中心とする自由な活社会経済生活を基盤しながら個人固有人権尊重平等主義横溢する社会実現をめざすという、「腕力世界」に対す批判生産力強調を含むものであった。これは、当時藩閥政府のみならず民権論者のなかにしばしばみられた国権主義軍備拡張主義に対して批判加えるものであり、自由主義平等主義平和主義特徴としていた。蘇峰の論は、1885年明治18年)に自費出版した『第十九世日本青年及其教育』(のちに『新日本青年』と解題して刊行)、翌1886年明治19年)に刊行された『将来日本』 に展開されたが、いずれも大江義塾時代研鑽よるものである。彼の論は、富国強兵鹿鳴館徴兵制国会開設沸きたっていた当時日本警鐘を鳴らすものとして注目された。 蘇峰1886年明治19年)の夏、脱稿したばかりの『将来日本』の原稿たずさえ新島襄添状持参して高知にあった板垣退助自由党総理)を訪ねている。原稿最初に見せたかったのが板垣であったといわれている。同書蘇峰の上京後に田口卯吉経済雑誌社より刊行されたものであるが、その華麗な文体多く若者魅了し、たいへん好評博したため、蘇峰東京転居して論壇デビュー果たした。これが蘇峰出世作となった1887年明治20年2月には東京赤坂榎坂に姉・初子の夫・湯浅治郎協力得て言論団体民友社」を設立し月刊誌国民之友』を主宰した。この誌名は、蘇峰同志社英学校時代愛読していたアメリカ週刊誌The Nation』から採用したものだといわれている。 民友社には弟の蘆花をはじめ山路愛山竹越與三郎国木田独歩らが入社した。『国民之友』は、日本近代化必然性説きつつも、政府推進する欧化主義に対しては「貴族的欧化主義」と批判三宅雪嶺志賀重昂陸羯南政教社掲げ国粋主義国粋保存主義に対して平民的急進主義主張展開して当時言論界二分する勢力となり、1888年明治21年)から1889年明治22年)にかけては、大同団結運動支援の論陣張ったまた、平民叢書第6巻として『現時社会主義』を1893年明治26年)に発刊するなど社会主義思想紹介おこない当時にあっては進歩的な役割になった。 その一方で蘇峰1888年明治21年)、森田思軒朝比奈知泉とともに文学会」の発会主唱した。会は毎月第2土曜日開かれ気鋭文筆家たちが酒なしで夕食をともにし、食後1人ないし2人文学について語り、また参加者全員雑談するという会合で、坪内逍遥森鷗外幸田露伴などが参加した1890年明治23年2月蘇峰民友社とは別に国民新聞社設立して國民新聞』を創刊し以後明治・大正・昭和3代わたってオピニオンリーダーとして活躍することとなった。さらに蘇峰は、1891年明治24年5月には『国民叢書』、1892年明治25年9月には『家庭雑誌』、1896年明治29年2月には『国民之友英文之部』(のち『欧文極東(The Far East)』)を、それぞれ発行している。このころ蘇峰は、結果として利害対立戦争をしか招かない強迫統合ではなく自愛主義他者尊重と自由尋問基本とする「随意結合」を説いていた。蘇峰は、『國民新聞発刊にあたって当時予の最も熱心であったのは、第一政治改良第二社会改良第三文芸改良第四宗教改良であった。 — 『蘇峰自伝』 と記している。 蘇峰1891年明治24年10月、『国民之友誌上に「書を読む遊民」を発表している。そこで蘇峰は、中学校旧制)に進学せず、地方町村役場吏員となっている若者小学校授業生(授業担当無資格教員となっている地方青年に、専門的な実業教育施して生産活動参画せしむるべきことを主張している。 一方で1889年明治22年1月に『日本国防論』、1893年明治26年12月には『吉田松陰』を発刊し1894年明治27年)、対外硬六派接近して第2次伊藤内閣攻撃し日清戦争に際しては、内村鑑三の「Justification of Korean War」を『国民之友』に掲載して朝鮮出兵論を高唱した。蘇峰は、日清開戦におよび、7月の『国民之友誌上に「絶好機会到来したと書いた(「好機」)。それは、今が、300年つづいてきた「収縮日本」が「膨脹日本」へと転換する絶好機会ということである。蘇峰戦況詳細に報道、自ら広島大本営に赴き、現地従軍記者派遣した。さらに蘇峰は、参謀次長川上操六軍令部長樺山資紀に対して密着取材敢行している。同年12月後半には『国民之友』『國民新聞社説収録した大日本膨脹論』を刊行した

※この「『國民新聞』の創刊と平民主義」の解説は、「徳富蘇峰」の解説の一部です。
「『國民新聞』の創刊と平民主義」を含む「徳富蘇峰」の記事については、「徳富蘇峰」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「『國民新聞』の創刊と平民主義」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「『國民新聞』の創刊と平民主義」の関連用語

『國民新聞』の創刊と平民主義のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



『國民新聞』の創刊と平民主義のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの徳富蘇峰 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS