『國民雑誌』主筆
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明治41年(1908年)以降は、雑誌『太陽』に人物月旦の筆をとり、また『國民雑誌』の主筆として活動した。同年5月、『現代金権史』発表。 明治42年(1909年)には『足利尊氏』『加藤清正』『豊太閤』『源頼朝』、翌43年(1910年)には『西郷隆盛』 など英雄列伝を発表。明治43年(1910年)10月に『武家時代史論』、翌44年(1911年)5月『勝海舟』、同8月に『佐久間象山』を発表している。 明治45年(1912年)1月『國民雑誌』誌上で、唯物史観をめぐって、山路と堺利彦との間で論争があった。『國民雑誌』2月1日に「唯物的歴史観―堺枯川君に与ふる公開状」を発表し、堺が次号に反批判を発表した。同年には『伊達騒動記』『加賀騒動記』の御家騒動叢書を刊行。 大正2年(1913年)、『為朝論 附・義経論』『日本歴史 家庭講話』『書斎独語』『愛山史論』を刊行。同年頃より未完の『日本人民史』の著作の準備をはじめ、『獨立評論』を再興し、その言論活動は晩年まで活発であった。大正3年(1914年)には『偉人論』 『岩崎弥太郎』 『現代富豪論』、同4年(1915年)には『徳川家康』 を刊行。 同年、丹毒で一時危篤となるがその後回復した。 大正5年(1916年)『支那論』 発表。同年秋に『信濃日々新聞』が発刊されると、これに主筆として多大の援助を与えた。 大正6年(1917年)3月15日、疫痢のため死去。享年54歳だった。辞世の一首、「この娑婆はとても去られぬ世なれども、生れぬさきの國へ行かなむ」。同年5月には『世界の過去現在未来』 が刊行された。
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