『国語論集』誌上での論争
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文化人類学者の山口昌男は、その著書『「敗者」の精神史』(岩波書店 1995年7月 分冊文庫本のISBN: 978-4006001445)の中で、雨情の『青い目の人形』と『赤い靴』について論じている。この山口本に触発された亀井秀雄(市立小樽文学館元館長)は、北海道教育大学釧路校国語科教育研究室が刊行している『国語論集・9』(2012年3月)に、『「赤い靴」をめぐる言説』を投稿した。 この論文の中で亀井は指摘する。『赤い靴』の像を建立した人々は、自分が作っているのは『赤い靴』から誘発された虚構の像であることを認識している。しかし、その想像力は赤い靴の少女と異人さんとの暮らしに向かわず、平民農場における母子再会という虚構の物語を構築して、この母子の不幸を癒してやる方へのみ向かっている。そして、その出発点には岡そのがいて、そのの新聞投書『幻の姉「赤い靴の女の子」』こそ雨情の童謡から言葉を借りた表現であり、ここから菊地寛のドキュメント、山口昌男論文、各地での記念像建立の動きが始まったと結論づけている。 これに対して、阿井渉介は反駁を試み、『国語論集・10』(2013年3月)に『「赤い靴」をめぐる言説」について』を投稿した。ただ阿井は、記念像建立に携わった者はすべて菊地説を妄信しているとして、「テレビの低劣なこしらえ物を基に、高次の文学論争をすることに意味があるとは思えない」「文芸的ではない人々を文芸的な思惟で囲い込まないほうがいい」としている。岡そのも菊地の被害者とみており、阿井の論文中では実名を一切使わず「□ □□」としている。岡そのの投書を、赤い靴現象の根幹とする亀井の立論はまったく無視されている。 一方で、阿井は、自らが唱えていた「赤い靴=赤い箱車=社会主義」説は撤回すると言い出している。「赤い箱車」についての自らの立論が、鈴木志郎の社会主義運動に対する雨情の共感を前提とする点では菊地説と同根であると、亀井論文を読むうち遅まきながら気づいたとしている。そして、『赤い靴』の発表は雨情と鈴木志郎の出会いから14年後のことであり、その間、雨情は鈴木志郎を忘れずにいたとする山口昌男の憶測は安易ではないか、とする亀井の指摘も尤もだという。 『国語論集・11』(2014年3月)には福地順一(元・札幌拓北高等学校校長)が『童謡「赤い靴」のモデルについて』を投稿、改めて、きみは『赤い靴』のモデルにはなりえないと考証している。阿井らが既に指摘していたことに加えてさらに、 野口雨情、鈴木志郎(および石川啄木)が小樽日報社に入社したのは事実だが、それより前、三人が札幌の北門新報社で同僚だったとする岡そのの投稿には誤りがある。同社に勤めていたのは志郎と啄木であり、雨情が勤めていたのは北鳴新報社である。 岡そのは、雨情と志郎が札幌・山鼻で一軒家を借りていたとするが、その言葉の裏づけは皆無である。 菊地は、岡そのの証言の矛盾を解消するため、志郎が北鳴新報社に勤めていた時期があるとする説を唱えているが、この新説の裏づけもない。 雨情は1945年(昭和20年)に亡くなるまで、きみが『赤い靴』のモデルであるとは一言も言及していない。 の諸点である。
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