『土上』と新興俳句とは? わかりやすく解説

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『土上』と新興俳句

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 08:39 UTC 版)

嶋田青峰」の記事における「『土上』と新興俳句」の解説

1922年大正11年1月虚子影響俳句が盛んであった国民新聞社句会である「国民吟社」の機関誌として『土上』が創刊される。『土上』は篠原温亭主宰し青峰協力する形で参加していたが、1926年大正15年10月に温亭が逝去すると、青峰自らが『土上』を継承した。 『土上』は当初、「温厚な生活感情の句」を特徴としていたが、青峰若い人新し意見として、プロレタリア俳句やそれに関する論文掲載したため、昭和に入ると新興俳句運動流れを受け社会主義リアリズム色彩帯びるようになっていった。1930年昭和5年7月、『土上』にABCなる者の「プロレタリア俳句理解」という文章掲載され俳壇では奇異の感を持たれることとなった。ABCは秋元地平線東京三俳号変えてきた秋元不死男であった。「プロレタリア俳句理解」は読売新聞文芸部長の千葉亀雄により評価され、同紙の文芸紹介された。これを喜んだ青峰地平線にもっと書くよう勧め地平線執筆意欲高めた。なお、地平線が『土上』に投稿するようになったきっかけ作ったのは、会社の同僚であった青峰の弟・嶋田的浦だった。 『土上』は新興俳句運動中心となり、青峰はその援助者目された。こうした新興俳句動き理解示した背景に、1933年昭和8年)から1941年昭和16年)まで早稲田大学文学部講師として教壇立ったことが影響している。青峰は「俳諧研究」の講義担当し俳句サークルの「早稲田吟社」・早稲田大学高等師範部の「二月堂俳句会」の指導行った。こうして若い人との接触多く豊富な理解力があったことが、『土上』で新興俳句の二大勢となった古家夫と東京三支えた考えられるこの頃息子洋一早稲田大学進学、『早稲田俳句』を立ち上げ中心人物として活躍した虚子門弟らは青峰のこの行動を「恩ある虚子弓を引いた」と考え水原秋桜子自身主宰する雑誌馬酔木』において「天地眼前くずるるとも無季俳句容認すべきではありません」と10歳年上青峰忠告発した。そして1930年昭和5年)に、青峰は『ホトトギス同人から除名された。

※この「『土上』と新興俳句」の解説は、「嶋田青峰」の解説の一部です。
「『土上』と新興俳句」を含む「嶋田青峰」の記事については、「嶋田青峰」の概要を参照ください。

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