『土上』と新興俳句
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1922年(大正11年)1月、虚子の影響で俳句が盛んであった国民新聞社の句会である「国民吟社」の機関誌として『土上』が創刊される。『土上』は篠原温亭が主宰し、青峰は協力する形で参加していたが、1926年(大正15年)10月に温亭が逝去すると、青峰自らが『土上』を継承した。 『土上』は当初、「温厚な生活感情の句」を特徴としていたが、青峰が若い人の新しい意見として、プロレタリア俳句やそれに関する論文を掲載したため、昭和に入ると新興俳句運動の流れを受け社会主義リアリズムの色彩を帯びるようになっていった。1930年(昭和5年)7月、『土上』にABCなる者の「プロレタリア俳句の理解」という文章が掲載され、俳壇では奇異の感を持たれることとなった。ABCは秋元地平線、東京三と俳号を変えてきた秋元不死男であった。「プロレタリア俳句の理解」は読売新聞文芸部長の千葉亀雄により評価され、同紙の文芸欄で紹介された。これを喜んだ青峰は地平線にもっと書くよう勧め、地平線は執筆意欲を高めた。なお、地平線が『土上』に投稿するようになったきっかけを作ったのは、会社の同僚であった青峰の弟・嶋田的浦だった。 『土上』は新興俳句運動の中心となり、青峰はその援助者と目された。こうした新興俳句の動きに理解を示した背景に、1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)まで早稲田大学文学部で講師として教壇に立ったことが影響している。青峰は「俳諧研究」の講義を担当し、俳句サークルの「早稲田吟社」・早稲田大学高等師範部の「二月堂俳句会」の指導も行った。こうして若い人との接触が多く、豊富な理解力があったことが、『土上』で新興俳句の二大勢力となった古家榧夫と東京三を支えたと考えられる。この頃、息子の洋一が早稲田大学に進学、『早稲田俳句』を立ち上げ中心人物として活躍した。 虚子の門弟らは青峰のこの行動を「恩ある虚子に弓を引いた」と考え、水原秋桜子は自身の主宰する雑誌『馬酔木』において「天地眼前にくずるるとも無季俳句を容認すべきではありません」と10歳年上の青峰に忠告を発した。そして1930年(昭和5年)に、青峰は『ホトトギス』同人から除名された。
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