べいぼく‐せんそう〔‐センサウ〕【米墨戦争】
読み方:べいぼくせんそう
米墨戦争
米墨戦争(1846年〜1848年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 03:09 UTC 版)
「ニューメキシコ州の歴史」の記事における「米墨戦争(1846年〜1848年)」の解説
米墨戦争中の1846年、アメリカのスティーブン・W・カーニー将軍と第1竜騎兵連隊の300名の兵士、 ミズーリ山岳騎兵隊の第1および第2連隊の1600名、および500名のモルモン大隊は、サンタフェ・トレイルを行軍し、サンタフェに無血入城した。メキシコ人当局者らは有り金を全部持って南方へ逃走した後だった。カーニーは、タオスに住むサンタフェ・トレイルの交易商チャールズ・ベントを代理の民政長官に置き、軍民合同の政府を創設した。カーニーはまた、「カーニー・コード」と呼ばれる戒厳令を布告し、カーニーと合衆国陸軍の約束として、アメリカ合衆国は宗教と法的権利を尊重することを約束し、法と秩序を維持するとして市民を保護した。カーニー・コードは、準州の時代のニューメキシコの法令のベースのひとつとなった。 次に彼は、軍を4つの部隊に分割した。ひとつ目は、軍政府長官に任命されたスターリング・プライス大佐が率いる概ね800名の部隊で、ニューメキシコの占領を維持する。アレクサンダー・ウィリアム・ドニファン大佐率いる2番目の集団は、800名余の兵士と共に、メキシコ・チワワ州のエルパソを占領して、ウール将軍と合流するよう命令された。3つめは、カーニー自らが指揮する300人あまりの竜騎兵部隊であり、ラバに装備を取り付け、カリフォルニアに向かった。4番目はモルモン大隊で、彼らは徒歩でカーニーの部隊の後を追い、フィリップ・セント・ジョージ・クック中佐のもと、カリフォルニアまでの新しい南のルートが馬車の通れるものとするための作業を行った。 カリフォルニアでは、ジョン・C・フレモント中佐率いるカリフォルニア大隊のおよそ400人の兵士と、ロバート・ストックトンアメリカ海軍代将が率いるまた別の400人の海軍と海兵隊が、サンディエゴからサクラメントの間のおよそ7000人のカリフォルニア住民を統制していた。現在のアリゾナ州を含むニューメキシコ準州は、明白なアメリカの統制下にあった。カーニー部隊はその行軍中の10月、東に向かって移動中の探険家キット・カーソンが率いる一団に出会った。カーソンはストックトン代将とフレモント中佐から託されたポーク大統領へのカリフォルニア平定のメッセージを持参していた。カリフォルニア平定を知ったカーニーは、部隊300名のうち100名を残して200名あまりはサンタフェに返した。 ニューメキシコとテキサスの正確な境界線は不確かだった。テキサスは、まずはじめにリオ・グランデ川の北側のすべての土地が領地だと主張したが、その後ほぼ現在の境界に同意した。 カーニーがカリフォルニアに向けてニューメキシコを出発した後、タオスの反乱と呼ばれる衝突がタオス・プエブロで発生した。1847年1月19日、タオス・プエブロの反乱者たちは、代理長官のチャールズ・ベントをはじめとするおよそ10名の町に住む白人を殺害した。素早い反応を見せたアメリカ合衆国は、スターリング・プライス大佐と軍隊をタオスに向かわせ、レンガ造りの強固な教会に立てこもった反乱軍を攻撃した。教会への集中砲火で、およそ150人の反乱者が死亡し、400人以上が捕まった。6人の反乱の指導者たちは裁判にかけられ、1847年2月9日、絞首刑に処せられた。この反乱事件において、プライスはさらに二つの反乱を鎮圧し、2月中旬には反乱を統制下に収めた。ポーク大統領はプライスを名誉階級の准将に特進させた。死傷兵の合計は、300人の反乱者と30人の「アングロ」(アメリカ軍人と開拓者はしばしばこう呼ばれた)とされる。
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「米墨戦争」の例文・使い方・用例・文例
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