七支刀 浜田耕策の説

七支刀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/29 09:11 UTC 版)

浜田耕策の説

神功皇后52年は252年であり、肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)は三韓征伐の時の百済の王であり、この部分は日本書紀の記述は正しいと考えられる。また七支刀を奉じた時の百済の王は古尓王(234-286)であり、その子は責稽王(生年未詳 - 298年)であり貴須はその誤読であると思われる。子孫の枕流王は毎年貢物を奉じる旨を述べただけであり七枝刀を献上した古尓王(234-286)とは時期を分ける必要がある。その一方で戦後に主流になった説紀年論[21]では干支二巡分(120年)年代が繰り上げられているとされており、訂正すると372年となって子孫の枕流王がいた制作年の太和(泰和)四年(369年)と符合すると主張する。[14][3]

浜田耕策はこの百済の外交は、倭国と百済が水平的な関係にあったとしたうえで、百済による刀献上外交によって、中国南朝と百済と加耶諸国と倭王の南方外交ラインが形成され、6世紀初頭までこのラインが存続したとしている[3]

七子鏡とボストン美術館所蔵銅鏡

なお、この時七支刀と同時に奉られた七子鏡は、アメリカ合衆国ボストン美術館に所蔵されている銅鏡ではないかとする説がある[22]。この鏡は、鏡背の主文様帯に乳(円形の突起)が7つあり、七子鏡の名称に相応しいという。これらの遺物は、1875年(明治8年)大雨で崩れた大仙陵古墳仁徳天皇陵)から出土したものと伝えられ、ボストン美術館には銅鏡、環頭大刀など5点が収蔵されている。これらの品は、1908年(明治41年)には既に博物館に所蔵されていた。

  • 鏡は細線式獣帯鏡で、青龍白虎玄武朱雀などの霊獣を細線で表しており、後漢製の舶載鏡と推定される。しかし、百済武寧王陵から同種の鏡が発掘され、中国の南朝での製品という可能性もある。
  • 大刀は、刀身が折れて欠失しており、長さ23センチの把(つか、柄)と環頭(柄頭)が残っている。環頭は鋳銅製、金鍍金で、環の内側には竜の頭部を表し、環には双竜を浮き彫りにしている。把には連続した三角形の中に禽獣を浮き彫りにした帯状の飾り金具を付けている。この類似品は朝鮮半島南部の新羅任那古墳から出土している。

宮内庁書陵部の研究によると、これらの出土品は、ボストン美術館中国・日本美術部勤務であった岡倉覚三(天心)により、1906年(明治39年)に京都で購入された可能性が高く、また、実年代は「6世紀の第1四半期を中心とした時期」であり、古墳の築造時期とずれがあるとも指摘されている[23]

『古事記』歌謡との関連

吉野裕子の話によると、[24]仁徳天皇(大雀命=おおさざきのみこと)と石上神宮との関係について、『古事記』中巻歌謡48を、皇子時代の仁徳天皇が七支刀を佩用していた様を吉野国主達が歌ったものと推測している。

原文

本牟多能 比能美古
意富佐邪岐 意富佐邪岐
波加勢流多知
母登都流藝 須惠布由
布由紀能 須加良賀
志多紀能 佐夜佐夜

ひらがな訳

ほむたの ひのみこ
おおさざき おおさざき
はかせるたち
もとつるぎ すえふゆ
ふゆきの すからが
したきの さやさや

読み下し文

品陀の 日の御子
大雀 大雀
佩かせる大刀
本つるぎ 末ふゆ
ふゆ木の すからが
下樹の さやさや

現代語訳[25]

天子樣の日の御子である
オホサザキ様、
オホサザキ様のお佩きになつている大刀は、
本は鋭く、切先は魂あり、
冬木のすがれの
下の木のようにさやさやと鳴り渡る。

注:仁徳天皇は、応神天皇(誉田別命=ほむたわけのみこと)の皇子である。また、「日の御子」とは、天皇・皇子を敬って言う語である。

  1. ^ 刀剣の分類上、「」は片刃の武器をさし、本品は両刃であるため「剣」に属するが、剣身に象嵌された銘文に本品を指して「七支刀」とあるため、一般名詞としてこう呼ばれている。
  2. ^ 表に34字、裏に27字、表裏併せて61字あり、読めるもの49字、全く読めないもの4字、後の8字はわずかに残る線画によって推測。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 浜田耕策「4世紀の日韓関係」第1回日韓歴史共同研究(第1期)第1分科報告書(2005年)。財団法人日韓文化交流基金で閲覧可能(2014年10月閲覧)。釈文については第1章第2節を参照。付録としてpp.58-63.に〈日本における「七支刀」研究文献目録〉を掲載。また 九州大学 21世紀COEプログラム 浜田耕策「七支刀銘文の語るもの」
  4. ^ 「聖音(又は晋)や「旨」の文字を銘記
  5. ^ 『古代の日朝関係』(塙選書)1989年
  6. ^ 『古代の日朝関係』(塙選書)1989年
  7. ^ ほか、福永光司『道教と古代日本』昭和62年、人文書院。佐伯有清『古代史演習 七支刀と広開土王碑』1977、吉川弘文館
  8. ^ 宮崎市定『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』 中公文庫 1992年1月。
  9. ^ 金錫亨著 朝鮮史研究会編『大和政権と任那』勁草書房、1969
  10. ^ 李丙燾『韓国古代史研究―古代史上の諸問題』学生社,1980年
  11. ^ 村山正雄編『石上神宮七支刀銘文図録』吉川弘文館、1996年
  12. ^ 同14頁
  13. ^ 『日本書紀』神功皇后摂政五十二年九月の条
  14. ^ a b c 『日本史総合年表』第二版、吉川弘文館、2005年
  15. ^ 日本書紀紀年論では249年。干支二運さげると369年。岩波文庫「日本書紀」(二),179頁注釈
  16. ^ 「以荒田別。鹿我別為将軍。則与久〓(氏+一)等共勒兵而度之。至卓淳国。将襲新羅。」
  17. ^ 「因以平定比自〓(火+本)。南加羅。喙国。安羅。多羅。卓淳。加羅七国。」
  18. ^ この出来事を、七支刀にあらわれる東晋の泰和四年(369年)に比定する解釈がある。「古代天皇はなぜ殺されたのか」 八木荘司 角川書店 ISBN 978-4043828081
  19. ^ 日本書紀紀年論では252年。干支二運さげると372年。岩波文庫「日本書紀」(二),185頁注釈によれば、この箇所は「百済記」によるとする。
  20. ^ 岩波文庫「日本書紀」(二),184頁訓読
  21. ^ 倉西裕子 『日本書紀の真実 紀年論を解く』 講談社〈講談社選書メチエ270〉、2003年5月。
  22. ^ 徳田誠司「米国ボストン美術館所蔵 所謂「伝仁徳天皇陵出土品」の調査」(『書陵部紀要』第62号〔陵墓編〕、宮内庁書陵部、2011)
  23. ^ 徳田誠司「米国ボストン美術館所蔵 所謂「伝仁徳天皇陵出土品」の調査」(『書陵部紀要』第62号〔陵墓編〕、宮内庁書陵部、2011)
  24. ^ 陰陽五行と日本の天皇』人文書院、1998年
  25. ^ 武田祐吉訳 (1956年). “古事記(現代語訳古事記)”. 角川書店. 2015年5月31日閲覧。


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