2010年 - 2013年
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「ジュビロ磐田」の記事における「2010年 - 2013年」の解説
2010年 クラブスローガン :「EVOLUTION 2010」 長年磐田を支えた中山雅史が札幌へ移籍し、鈴木秀人が現役を引退。 茶野隆行、村井慎二が千葉、萬代宏樹が鳥栖、京都へ期限付き移籍していた松井謙弥がC大阪へ完全移籍。 パク・チュホを鹿島から、イ・ガンジンを釜山から、荒田智之を水戸から完全移籍で獲得。 2010 FIFAワールドカップ日本代表に川口、駒野が選出、駒野は全4試合フル出場。川口はその後代表から遠ざかり、後半戦はシーズン初出場。 シーズン途中、イ・グノがG大阪、カレン・ロバートが熊本へ完全移籍。 菅沼実と古賀正紘を柏から期限付き移籍で獲得。 ナビスコカップ、決勝で広島を破り、7年振りにタイトルを獲得した(ナビスコカップは12年ぶり)。MVPに2ゴール1アシストを記録した前田が選出された。 リーグ戦17節終了時点で15位の成績。後半戦に入り22節~29節まで無敗、32節、3連覇中の鹿島をアウェーで8年ぶりに破る等7勝4敗6分の成績を残し、最終順位は11位。 シーズン17得点の前田が2000年の中山以来通算2度目、2年連続Jリーグ得点王、ベストイレブンに選出される。 2011年 クラブスローガン :「ROAD TO CHAMPION 2011」 成岡翔が福岡、上田康太が大宮、犬塚友輔が甲府へ完全移籍。 松浦拓弥が福岡、大井健太郎が湘南へ期限付き移籍。大畑拓也が順天堂大学へ進学。 藤田義明を大分から完全移籍で、植村慶を湘南から期限付き移籍で獲得。 小林裕紀と山田大記が明治大学から、金園英学が関西大学から加入。 シーズン途中、開幕からスタメンに定着していたパク・チュホがFCバーゼルへ完全移籍。 7月、ブラジルのサンパウロFCからロドリゴ・ソウトを完全移籍で獲得。 8月、スルガ銀行チャンピオンシップ2011でアルゼンチンのインデペンディエンテに勝利。国際大会優勝は12年ぶり。 開幕戦6年ぶりに勝利。その後も勝ち点を積み上げていた。 年間成績は8位。 ナビスコカップはベスト8、天皇杯は3回戦で敗退。 シーズン終了後、柳下が監督を退任。 ゼネラルマネージャー制(GM)を導入して服部健二が就任。 2012年 クラブスローガン :「原点開起 ROAD TO CHAMPION 2012」 前年はコーチであった森下仁志が監督に就任。 ジウシーニョがコリンチャンス、本田慎之介がブリーラム、イ・ガンジンが全北現代、船谷圭祐が鳥栖、加賀健一がFC東京、那須大亮が柏、古賀正紘が福岡、西紀寛が東京V、前年湘南に期限付き移籍をしていた大井健太郎が新潟へそれぞれ完全移籍。岡田隆、荒田智之が福岡、千葉へ期限付移籍。 新しい選手は、千代反田充を名古屋から、阿部吉朗を湘南から、松岡亮輔を神戸から、チョ・ビョングクを仙台からそれぞれ完全移籍で獲得、宮崎智彦を鹿島から、菅沼駿哉をG大阪から期限付き移籍で獲得。押谷祐樹、松浦拓弥がレンタル先の岐阜、福岡から復帰。 新人のペク・ソンドンが韓国の延世大学から、櫻内渚が関西大学から、木下高彰が浜松開誠館高校から加入。 7月、元韓国代表ハン・サンウンを韓国の城南から完全移籍、小林祐希を東京Vから期限付き移籍で獲得。 途中まではACL争いの中に入っていたが、26節から失速して12位。ナビスコカップはグループリーグ敗退。 天皇杯は4回戦敗退。 2013年 クラブスローガン :「原点開起 ROAD TO CHAMPION 2013」 黄誠秀が群馬、千代反田充が徳島、荒田智之が岡山、ハン・サンウンが韓国の蔚山現代FC、ロドリゴ・ソウトがブラジル1部のナウチコへ完全移籍。竹重安希彦が新潟、押谷祐樹が岡山へそれぞれ期限付き移籍、岡田隆の移籍期限が延長された。 前年度、期限付き移籍で加入していた植村慶、菅沼駿哉、宮崎智彦、小林祐希を完全移籍で獲得した。神戸から現役日本代表の伊野波雅彦とシーズン途中にフィテッセから日本代表安田理大を完全移籍で獲得、京都からチョン・ウヨンが期限付き移籍で加入。 磐田ユース所属2種登録だった牲川歩見、関西大学から田中裕人が加入。 リーグ戦は、開幕7戦を2分5敗、7節時点で最下位。8節の湘南戦でリーグ戦初勝利するが、9節甲府に敗戦、5月4日に森下監督が解任された。 ヘッドコーチ長澤徹が監督代行を務め、5月19日よりU-23サッカー日本代表元監督関塚隆が監督に就任(長澤はヘッドコーチに復帰)。 しかし第31節で鳥栖に敗れ、翌2014年シーズンはJ1からクラブ史上初のJ2へ降格。 天皇杯3回戦敗退。 シーズン終了後、関塚監督、GM服部健二、長澤ヘッドコーチが退任。
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2010年 - 2013年
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「ネヴァブション」の記事における「2010年 - 2013年」の解説
2010年の初戦は連覇のかかったアメリカジョッキークラブカップに出走。道中好位でレースを進め、最後の直線でシャドウゲイトとのたたき合いを制し、連覇を飾った。続く日経賞ではマイネルキッツの4着に敗れた。 その後、香港に遠征し4月25日のクイーンエリザベス2世カップに出走、4着に敗れた。帰国後、6月27日の宝塚記念では5着に敗れた。秋緒戦の毎日王冠では3着に入った。天皇賞(秋)ではブエナビスタの5着に敗れた。さらに12月4日のステイヤーズステークスに出走してコスモヘレノスの3着に入った。有馬記念では8着に終わった。 2011年は3連覇のかかったアメリカジョッキークラブカップでは3着に敗れた。その後は大阪杯を目標に調整されていたが、1週間前追い切りで骨折に見舞われ、全治1年以上と診断され治療に専念することとなった。 2012年、休養明け初戦の中山金杯では見せ場なく12着と大敗した。続くアメリカジョッキークラブカップでも7着に終わる。日経賞では5着に敗れた。以後新潟大賞典でも14着、目黒記念は見せ場なく16着、函館記念は10着、札幌記念は12着と惨敗が続いている。 2013年も惨敗続きでステイヤーズステークス12着が最後の競走となり、2013年12月25日付けで競走馬登録を抹消された。
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2010年 - 2013年
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「OBA」の記事における「2010年 - 2013年」の解説
Reo MatsumotoとShun Tapとオーストラリアのメルボルンで大道芸を披露して資金を調達し、海外旅行を行った。この時に外国の音楽・踊りに強く影響を受けて「自身の身体でしかなしえないダンスとはなにか」と考えるようになったという。
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2010年 - 2013年(JFL)
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「ツエーゲン金沢」の記事における「2010年 - 2013年(JFL)」の解説
2010年 上野体制2年目。元日本代表の久保竜彦を獲得した。4月9日にJリーグ準加盟を申請した。12月15日、株式会社ツエーゲンを設立して、トップチームの運営を「石川フットボールクラブ」から移管した。 2011年 上野体制3年目。再度準加盟を申請したが継続審議となった。東日本大震災の影響でシーズン日程が変更され、リーグ戦は中盤に暫定で首位に立ったが、最終成績は7位。シーズン終了後に上野が監督を退任した。また、マイケル・ジェームズがニュージーランド代表に選出され、クラブ初のA代表選出となった。 2012年 福岡元ヘッドコーチの森下仁之が監督に就任。ホームスタジアムの改修やクラブの資本金増資の遅延により、2012年2月審査の準加盟申請は見送られた。また、クラブ事務所を、ホームスタジアムである西部緑地公園そばのカフェ併設の事務所に移転し、開幕前に地元政財界人の経営参加と運営会社に8千万円の増資が行われた。 2013年 チームスローガン:団結エーゲン 森下体制2年目。2013年2月、Jリーグ準加盟が承認された。天皇杯の2回戦で横浜FCに勝利した(3回戦で清水に敗北)。11月19日、日本プロサッカーリーグの理事会でJリーグへの入会と、2014年のJ3リーグ参加が承認された。
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2010年 - 2013年(JFL)
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「ブラウブリッツ秋田」の記事における「2010年 - 2013年(JFL)」の解説
2010年 TDKサッカー部コーチの横山博敏が監督に就任。12月17日、クラブは秋田陸をホームスタジアムとして秋田県や秋田市と調整していたが、スタジアムの確保及び秋田市八橋運動公園陸上競技場、秋田市八橋運動公園球技場改修の目処が立たないために2011年のJリーグ準加盟申請を見送ることとを発表した。。 シーズン終了後、岡本彰泰や池田昌広、高橋臣徳らが契約満了により退団、岩瀬浩介らが引退した。 2011年 チームスローガン 「絆」 横山体制2年目。大分から小林宏之、鳥栖から浅井俊光らを完全移籍で、柏から比嘉厚平を、甲府から畑田真輝を期限付き移籍で獲得。また、大卒ルーキーとして新里彰平、高橋理などが加入した。11月30日、ホームスタジアムとして予定している秋田市八橋運動公園陸上競技場の改修の目処が立たないため、2012年のJリーグ準加盟申請を再び見送る事を発表した。 シーズン終了後、横山が監督を退任。また、今井大悟、片山直哉らが契約満了で退団、比嘉厚平と畑田真輝が期限付き移籍満了で各クラブへ復帰、千野俊樹らが引退した。 2012年 チームスローガン 「~変革~」 新監督に、大宮ユース監督だった横山雄次が就任した。 補強として、岡山から野本安啓を、柏からエフラインリンタロウを期限付き移籍で獲得。また、大卒ルーキーとして二戸将、北森陽介、土屋健太が加入した。また、シーズン途中7月には仙台から島川俊郎を期限付き移籍で獲得した。 最終成績は13位となり、昨年より1つ順位を上げた。 11月30日付でJリーグ準加盟申請の書類が受理された シーズン終了後、横山が監督を退任。また、小林宏之や松ヶ枝泰介、北森陽介らが契約満了により退団、エフライン、島川が期限付き移籍満了で各クラブへ復帰、野本安啓が引退した。 2013年 チームスローガン 「勝~Action」 新監督に元北九州監督の与那城ジョージが就任。 2月26日、Jリーグ準加盟が承認された。8月16日、男鹿市と「スポーツ振興及び地域の活性化に関する覚書」を締結した。11月19日、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の理事会でJリーグへの入会が承認され、2014年からのJ3リーグ参加が決定した。この年のオフに、運営会社の社名を「株式会社ブラウブリッツ秋田」に改め、エンブレムも刷新された。
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2010年~2013年
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「コスワース」の記事における「2010年~2013年」の解説
F1:ウィリアムズ(2010・2011年)、チーム・ロータス(2010年)、HRT F1(2012年まで)、ヴァージン・レーシング(→マルシャF1チーム、2013年まで)。詳細はコスワース・CA2010。
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