1964年~1983年とは? わかりやすく解説

1964年~1983年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 14:21 UTC 版)

ピート・タウンゼント」の記事における「1964年~1983年」の解説

初代マネージャーのピート・ミーデン(英語版)は、ザ・フー当時席巻していたモッズ・バンドとして売り出そうと計画しメンバーモッズ衣装を着させ、バンド名もハイ・ナンバーズと改めさせた。だがミーデンの目論見外れバンドは名前をザ・フー戻し新しマネージャーであるキット・ランバートとクリス・スタンプ(英語版)の下で再出発するランバートタウンゼントダビング録音可能なテープレコーダーを買い与えた。これがタウンゼント作曲家才能開花させるきっかけとなったタウンゼントは「アイ・キャント・エクスプレイン」、「エニウェイ・エニハウ・エニホェア」、「マイ・ジェネレーション」、「恋のピンチ・ヒッター」とヒットナンバーを次々と量産ザ・フー一躍スターダムにのし上がったタウンゼント他のアーティストへの楽曲提供積極的に行った1966年、ザ・マージーズという音楽ユニットに「ソー・サッド・アバウト・アス」を提供、1967年にはプティングというバンドに「マジック・バス」を提供した。この2曲は後にザ・フーとしてセルフ・カバーされている。またタウンゼント友人で、3作目のアルバムアルバム『セル・アウト』(1967年)に楽曲アルメニアの空」を提供したジョン・“スピーディー”・キーン中心とするバンドサンダークラップ・ニューマン1969年結成させ、デビュー・シングルサムシング・イン・ジ・エアー」をプロデュースし同時にベース担当した。同曲は全英シングルチャートで3週にわたって1位を記録する大ヒットとなったザ・フー楽曲大部分作曲していたタウンゼントには、他のメンバー異なりソロ作品発表する要はなかったが、1970年には彼が1967年より帰依しているインド導師メハー・ババ誕生日を祝うために製作されたチャリティー・アルバム『Happy Birthday』に楽曲を提供。1972年には同じ趣旨製作されアルバムI Am』にもやはり楽曲提供する。この2つアルバムはわずかしかプレスされず、ほとんどはババ信者の手渡ったが、これがザ・フーファンの間でうわさになり、これらの楽曲海賊盤出回り始めた事から、アメリカMCAレコードからの要請により1972年リリースされた『フー・ケイム・ファースト』が、タウンゼント正式な1stソロ・アルバムとなる(全英30位、全米69位)。ここには上記ババのための2枚アルバムからの楽曲や、幻に終わったアルバムライフハウス」のための楽曲など収められており、純粋な新作アルバムというより、未発表曲集の意味合いが強いアルバムとなっている。 1973年1月薬物中毒などによるスランプに陥って活動停止していた親友エリック・クラプトン復帰ライブ企画し自身演奏参加同年9月にこのコンサート実況盤『エリック・クラプトン・レインボー・コンサート』がリリースされるその後はしばらくソロ活動行わず1976年に再びババのためのアルバムWith Love』に楽曲提供する程度とどまっていたが、この間タウンゼントキット・ランバートとの訴訟問題抱えており、音楽業界嫌気差しザ・フーにも興味失いかけていた。そのような時期1977年に、親友ロニー・レイン共同製作した2枚目のソロアルバムラフ・ミックス』(全英44位、全米45位)をリリースするアルバムには盟友クラプトンチャーリー・ワッツボズ・バレル等が参加した1978年キース・ムーン急逝数年先までスケジュール決まっていたため、バンド解散させることは出来ずザ・フー新たなドラマーに元フェイセズケニー・ジョーンズ迎え1979年より再出発切った。「新生ザ・フーでの演奏楽しかったと言うタウンゼントだったが、ムーンの死を契機に、タウンゼント興味ソロ活動の方へと移っていった。1980年には、新作のみを揃えた純粋なソロ作としては初のアルバム『エンプティ・グラス』を発表全米5位、全英11位というタウンゼントソロ作の中では最高のセールス記録した。だが、ケニー・ジョーンズタウンゼントが「いい曲をザ・フーではなくソロのほうへ持っていっている」と不満を露にし、さらにはダルトリージョーンズプレイを嫌い、本人向かって「もうお前とは仕事したくない」と言い放つなど、メンバー間に亀裂生じ始めた。これに加えタウンゼントは妻のカレンとの仲もうまく行かなくなりそういったストレスから酒とドラッグ溺れるようになり、1981年9月にはコカインの過剰摂取により、一時的に心肺停止の状態にまで陥ったその後カリフォルニア薬物依存治療1ヶ月ほど受け、何とか回復した復活はしたものの、タウンゼント精神はもはや限界来ていた。1982年には4目のソロアルバム『チャイニーズ・アイズ』をリリース全英32位、全米26位)。同年12月トロントにて最後のコンサートを行う。1983年5月タウンゼントダルトリー自宅訪れ、「もうツアーできない」と告げダルトリーもそれを聞き入れた6月ザ・フー正式に解散した同年4月、デモバージョンや未発表曲を集めた5作目ソロアルバムスクープ』を発表全米35位)。

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1964年 - 1983年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 00:12 UTC 版)

ロジャー・ダルトリー」の記事における「1964年 - 1983年」の解説

初代マネージャーのピート・ミーデンの命により、バンドはモッズ・バンドとして売り出されバンド名もザ・フーからハイ・ナンバーズに変更したモッズではないのにモッズとして振舞なければならなかったことにダルトリー少なからず抵抗感があったという。結局ミーデンの戦略外れデビューシングル不発に終わる。バンドもミーデンに不満を持っていたことから、新しマネージャーキット・ランバートとクリス・スタンプの元で再始動することとなり、バンド名もザ・フー戻した1965年ザ・フー名義でのファースト・シングル「アイ・キャント・エクスプレイン」は全英チャートの8位につけるヒットとなり、上々スタート切った。だが、この頃バンド内では深刻な対立がおき始めていた。タウンゼント当時受けたインタビューで「ロジャーサウンド仕上がり文句を付けそのこと喧嘩になることが多い」と、バンド内情打ち明けている。これに加え一切ドラッグ手を染めなかったダルトリー対し、他の3人がドラッグはまっていたことも両者の対立深める要因となっていた。同年9月デンマークでのツアー中、楽屋ハイになったムーンダルトリー激怒彼の錠剤トイレ流してしまい、襲いかかってきたムーン殴って気絶させるという事件が起きる。他の3人は全員一致ダルトリー解雇決めたが、3枚目のシングルマイ・ジェネレーション」が全英チャート16位で初登場し、好調な売り上げ見せると(最高位2位ダルトリーは3人に謝罪しマネージャーらの説得功を奏しバンド脱退という最悪事態は何とか免れた。この騒動その後も尾を引き、プレスからはダルトリー代わりボズ・バレル(後のキング・クリムゾンボーカリストベーシスト)が加入するではないかという飛ばし記事書かれた。 バンド内の対立はこれで収まったわけではなく1966年5月3日には再びダルトリー脱退表明し20日戻ってくるまでバンドダルトリー抜きでギグこなした。そのダルトリー戻った同日今度ムーンメンバー衝突し脱退宣言実際に1週間ほど仕事放棄した。尚、エントウィッスルも当時ザ・フー脱退しムーディ・ブルースへの加入画策しており、バンドとして非常に不安定な時期だったが、1967年から1968年にかけて行った全米ツアー経て、「バンド団結することが出来た」とダルトリー振り返っている。 1971年にはエントウィッスルが、1972年にはタウンゼント(厳密にはミハ・バーバー関連正式なソロ1980年)ぞれソロ・アルバム発表するが、ダルトリーはあくまでザ・フーシンガーとしての立場こだわりソロ活動興味を示すことはなかった。それが変わったのは1973年往年のポップ・シンガー、アダム・フェイスとその相棒のデヴィッド・コートニー、そして彼らがマネージメントをしていた新人ソングライターレオ・セイヤー出会ったことがダルトリーソロ活動へ向かわせるきっかけとなった楽曲プロデュース彼等3人にゆだねて製作されダルトリーのファースト・ソロ・アルバム『ダルトリー』はバラード中心となり、ザ・フーとは違った彼の一面見せ作品となったシングル・リリースした「ギヴィング・イット・オール・アウェイ」が全英5位という、ザ・フーの各メンバーソロ作品中最高のヒット作となる。アルバム全英6位まで上昇している(全米45位)。 1975年ダルトリー俳優デビューを果たす。1969年ザ・フー発表したロックオペラアルバム『トミー』の映画化にあたり主人公トミー演じたのである。この映画ダルトリー俳優としての才能開花させ、以降様々なドラマ映画出演するきっかけとなった。『トミー』の成功により、ダルトリー一躍時の人となり、プロモーションのためにアメリカ訪れると、若い女の子たちに囲まれもみくちゃにされたという。また同年自身2枚目のソロ・アルバム『ライド・ア・ロック・ホース』をリリースする前作とは打って変わってハードな楽曲がならび、売り上げ前作大きく上回り全英14位、全米28位にまで上ったソロ活動充実する一方ザ・フーの方はこの頃より軋み生じるようになる1975年タウンゼントが『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』のインタビュー自身対し厳し意見をぶつけると、今度ダルトリーが同じ紙面タウンゼント痛烈に批判した2人不仲表沙汰になり、ザ・フー解散説がまことしやかにささやかれるうになる。さらに、ムーン長年不摂生により、以前のようなツアー活動ができなくなりザ・フーとして活動停滞気味になる。そのような中での1977年3枚目のソロ・アルバム『ワン・オブ・ザ・ボーイズ』を発表アルバムにはポール・マッカートニーハンク・マーヴィンなど、豪華ゲスト多数参加した。さらにエントウィッスルも参加しているが、売り上げ前作ほどは伸びず、全英45位、全米46位に終わった1978年キース・ムーン急逝1979年、元フェイセズケニー・ジョーンズが新ドラマーとして加入新生ザ・フーとして再始動する。しかし、間もなくダルトリージョーンズの間に軋轢生じはじめる。ダルトリージョーンズのドラム・プレイを好かず、マネージャージョーンズやめさせるようタウンゼント説得してほしいと頼むほどに彼を嫌ったダルトリーは「キース俺のボーカル・ラインに沿ってドラム叩いてくれたがケニーは違う」と主張しタウンゼント悩ませた。 1980年映画『McVicar』(日本未公開)に主演。同映画のサウンドトラック盤『マックヴィカー』には、ザ・フーメンバー全員参加しており、便宜上ダルトリー4目のソロ・アルバムという扱いではあるが、むしろザ・フー課外活動の意味合いが強い。本作ダルトリーソロ史上最高の売り上げ(全米22位、全英39位)を記録した求心力失っていたザ・フーは、1982年12月最後コンサート・ツアー行った後、1983年6月正式に解散表明する

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