1964年~1983年
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「ピート・タウンゼント」の記事における「1964年~1983年」の解説
初代マネージャーのピート・ミーデン(英語版)は、ザ・フーを当時席巻していたモッズ・バンドとして売り出そうと計画し、メンバーにモッズの衣装を着させ、バンド名もハイ・ナンバーズと改めさせた。だがミーデンの目論見は外れ、バンドは名前をザ・フーに戻し、新しいマネージャーであるキット・ランバートとクリス・スタンプ(英語版)の下で再出発する。ランバートはタウンゼントにダビング録音が可能なテープレコーダーを買い与えた。これがタウンゼントの作曲家の才能を開花させるきっかけとなった。タウンゼントは「アイ・キャント・エクスプレイン」、「エニウェイ・エニハウ・エニホェア」、「マイ・ジェネレーション」、「恋のピンチ・ヒッター」とヒットナンバーを次々と量産、ザ・フーは一躍スターダムにのし上がった。 タウンゼントは他のアーティストへの楽曲提供も積極的に行った。1966年、ザ・マージーズという音楽ユニットに「ソー・サッド・アバウト・アス」を提供、1967年にはプティングというバンドに「マジック・バス」を提供した。この2曲は後にザ・フーとしてセルフ・カバーされている。またタウンゼントの友人で、3作目のアルバムアルバム『セル・アウト』(1967年)に楽曲「アルメニアの空」を提供したジョン・“スピーディー”・キーンを中心とするバンド、サンダークラップ・ニューマンを1969年に結成させ、デビュー・シングル「サムシング・イン・ジ・エアー」をプロデュースし、同時にベースも担当した。同曲は全英シングルチャートで3週にわたって1位を記録する大ヒットとなった。 ザ・フーの楽曲の大部分を作曲していたタウンゼントには、他のメンバーと異なりソロ作品を発表する必要はなかったが、1970年には彼が1967年より帰依しているインドの導師、メハー・ババの誕生日を祝うために製作されたチャリティー・アルバム『Happy Birthday』に楽曲を提供。1972年には同じ趣旨で製作されたアルバム『I Am』にもやはり楽曲提供する。この2つのアルバムはわずかしかプレスされず、ほとんどはババの信者の手に渡ったが、これがザ・フーのファンの間でうわさになり、これらの楽曲が海賊盤で出回り始めた事から、アメリカのMCAレコードからの要請により1972年にリリースされた『フー・ケイム・ファースト』が、タウンゼントの正式な1stソロ・アルバムとなる(全英30位、全米69位)。ここには上記のババのための2枚のアルバムからの楽曲や、幻に終わったアルバム「ライフハウス」のための楽曲などが収められており、純粋な新作アルバムというより、未発表曲集の意味合いが強いアルバムとなっている。 1973年1月、薬物中毒などによるスランプに陥って活動を停止していた親友エリック・クラプトンの復帰ライブを企画し、自身も演奏に参加。同年9月にこのコンサートの実況盤『エリック・クラプトン・レインボー・コンサート』がリリースされる。 その後はしばらくソロ活動は行わず、1976年に再びババのためのアルバム『With Love』に楽曲提供する程度にとどまっていたが、この間、タウンゼントはキット・ランバートとの訴訟問題を抱えており、音楽業界に嫌気が差し、ザ・フーにも興味を失いかけていた。そのような時期の1977年に、親友のロニー・レインと共同で製作した2枚目のソロアルバム『ラフ・ミックス』(全英44位、全米45位)をリリースする。アルバムには盟友クラプトンやチャーリー・ワッツ、ボズ・バレル等が参加した。 1978年、キース・ムーンが急逝。数年先までスケジュールが決まっていたため、バンドを解散させることは出来ず、ザ・フーは新たなドラマーに元フェイセズのケニー・ジョーンズを迎え、1979年より再出発を切った。「新生ザ・フーでの演奏は楽しかった」と言うタウンゼントだったが、ムーンの死を契機に、タウンゼントの興味はソロ活動の方へと移っていった。1980年には、新作のみを揃えた純粋なソロ作としては初のアルバム『エンプティ・グラス』を発表。全米5位、全英11位というタウンゼントのソロ作の中では最高のセールスを記録した。だが、ケニー・ジョーンズはタウンゼントが「いい曲をザ・フーではなくソロのほうへ持っていっている」と不満を露にし、さらにはダルトリーがジョーンズのプレイを嫌い、本人に向かって「もうお前とは仕事したくない」と言い放つなど、メンバー間に亀裂が生じ始めた。これに加え、タウンゼントは妻のカレンとの仲もうまく行かなくなり、そういったストレスから酒とドラッグに溺れるようになり、1981年の9月にはコカインの過剰摂取により、一時的に心肺停止の状態にまで陥った。その後、カリフォルニアで薬物依存の治療を1ヶ月ほど受け、何とか回復した。 復活はしたものの、タウンゼントの精神はもはや限界に来ていた。1982年には4枚目のソロアルバム『チャイニーズ・アイズ』をリリース(全英32位、全米26位)。同年12月にトロントにて最後のコンサートを行う。1983年5月、タウンゼントはダルトリーの自宅を訪れ、「もうツアーはできない」と告げ、ダルトリーもそれを聞き入れた。6月、ザ・フーは正式に解散した。同年4月、デモバージョンや未発表曲を集めた5作目のソロアルバム『スクープ』を発表(全米35位)。
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1964年 - 1983年
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「ロジャー・ダルトリー」の記事における「1964年 - 1983年」の解説
初代マネージャーのピート・ミーデンの命により、バンドはモッズ・バンドとして売り出され、バンド名もザ・フーからハイ・ナンバーズに変更した。モッズではないのにモッズとして振舞わなければならなかったことに、ダルトリーは少なからず抵抗感があったという。結局ミーデンの戦略は外れ、デビューシングルは不発に終わる。バンドもミーデンに不満を持っていたことから、新しいマネージャーのキット・ランバートとクリス・スタンプの元で再始動することとなり、バンド名もザ・フーに戻した。 1965年、ザ・フー名義でのファースト・シングル「アイ・キャント・エクスプレイン」は全英チャートの8位につけるヒットとなり、上々のスタートを切った。だが、この頃バンド内では深刻な対立がおき始めていた。タウンゼントは当時受けたインタビューで「ロジャーがサウンドの仕上がりに文句を付け、そのことで喧嘩になることが多い」と、バンドの内情を打ち明けている。これに加え、一切ドラッグに手を染めなかったダルトリーに対し、他の3人がドラッグにはまっていたことも両者の対立を深める要因となっていた。同年9月のデンマークでのツアー中、楽屋でハイになったムーンにダルトリーが激怒、彼の錠剤をトイレに流してしまい、襲いかかってきたムーンを殴って気絶させるという事件が起きる。他の3人は全員一致でダルトリーの解雇を決めたが、3枚目のシングル「マイ・ジェネレーション」が全英チャートに16位で初登場し、好調な売り上げを見せると(最高位2位)ダルトリーは3人に謝罪し、マネージャーらの説得も功を奏し、バンド脱退という最悪の事態は何とか免れた。この騒動はその後も尾を引き、プレスからはダルトリーに代わりボズ・バレル(後のキング・クリムゾンのボーカリスト/ベーシスト)が加入するのではないかという飛ばし記事も書かれた。 バンド内の対立はこれで収まったわけではなく、1966年の5月3日には再びダルトリーが脱退を表明し、20日に戻ってくるまでバンドはダルトリー抜きでギグをこなした。そのダルトリーが戻った同日に今度はムーンがメンバーと衝突し脱退を宣言、実際に1週間ほど仕事を放棄した。尚、エントウィッスルも当時ザ・フーを脱退し、ムーディ・ブルースへの加入を画策しており、バンドとして非常に不安定な時期だったが、1967年から1968年にかけて行った全米ツアーを経て、「バンドが団結することが出来た」とダルトリーは振り返っている。 1971年にはエントウィッスルが、1972年にはタウンゼント(厳密にはミハ・バーバー関連で正式なソロは1980年)ぞれソロ・アルバムを発表するが、ダルトリーはあくまでザ・フーのシンガーとしての立場にこだわり、ソロ活動に興味を示すことはなかった。それが変わったのは1973年。往年のポップ・シンガー、アダム・フェイスとその相棒のデヴィッド・コートニー、そして彼らがマネージメントをしていた新人ソングライターのレオ・セイヤーに出会ったことがダルトリーをソロ活動へ向かわせるきっかけとなった。楽曲、プロデュースを彼等3人にゆだねて製作されたダルトリーのファースト・ソロ・アルバム『ダルトリー』はバラードが中心となり、ザ・フーとは違った彼の一面を見せる作品となった。シングル・リリースした「ギヴィング・イット・オール・アウェイ」が全英5位という、ザ・フーの各メンバーのソロ作品中最高のヒット作となる。アルバムも全英6位まで上昇している(全米は45位)。 1975年、ダルトリーは俳優デビューを果たす。1969年にザ・フーが発表したロックオペラアルバム『トミー』の映画化にあたり、主人公のトミーを演じたのである。この映画がダルトリーの俳優としての才能を開花させ、以降様々なドラマ、映画に出演するきっかけとなった。『トミー』の成功により、ダルトリーは一躍時の人となり、プロモーションのためにアメリカを訪れると、若い女の子たちに囲まれもみくちゃにされたという。また同年、自身2枚目のソロ・アルバム『ライド・ア・ロック・ホース』をリリースする。前作とは打って変わってハードな楽曲がならび、売り上げは前作を大きく上回り、全英14位、全米28位にまで上った。 ソロ活動が充実する一方、ザ・フーの方はこの頃より軋みが生じるようになる。1975年、タウンゼントが『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』のインタビューで自身に対し厳しい意見をぶつけると、今度はダルトリーが同じ紙面でタウンゼントを痛烈に批判した。2人の不仲が表沙汰になり、ザ・フー解散説がまことしやかにささやかれるようになる。さらに、ムーンが長年の不摂生により、以前のようなツアー活動ができなくなり、ザ・フーとしての活動は停滞気味になる。そのような中での1977年、3枚目のソロ・アルバム『ワン・オブ・ザ・ボーイズ』を発表。アルバムにはポール・マッカートニーやハンク・マーヴィンなど、豪華ゲストが多数参加した。さらにエントウィッスルも参加しているが、売り上げは前作ほどは伸びず、全英45位、全米46位に終わった。 1978年、キース・ムーンが急逝。1979年、元フェイセズのケニー・ジョーンズが新ドラマーとして加入、新生ザ・フーとして再始動する。しかし、間もなくダルトリーとジョーンズの間に軋轢が生じはじめる。ダルトリーはジョーンズのドラム・プレイを好かず、マネージャーにジョーンズをやめさせるようタウンゼントを説得してほしいと頼むほどに彼を嫌った。ダルトリーは「キースは俺のボーカル・ラインに沿ってドラムを叩いてくれたがケニーは違う」と主張し、タウンゼントを悩ませた。 1980年、映画『McVicar』(日本未公開)に主演。同映画のサウンドトラック盤『マックヴィカー』には、ザ・フーのメンバー全員が参加しており、便宜上はダルトリー4枚目のソロ・アルバムという扱いではあるが、むしろザ・フーの課外活動の意味合いが強い。本作はダルトリーのソロ史上最高の売り上げ(全米22位、全英39位)を記録した。 求心力を失っていたザ・フーは、1982年12月に最後のコンサート・ツアーを行った後、1983年6月に正式に解散を表明する。
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