1912年の人種問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 22:35 UTC 版)
「フォーサイス郡 (ジョージア州)」の記事における「1912年の人種問題」の解説
南北戦争後白人と黒人の間に大きな変化が起こり、南部中に影響する問題を生じさせた。北ジョージアでも人種間の緊張が暴力事件を起こした。その1つの例が1906年のアトランタ人種暴動であり、20人以上が死亡し、郡内に人種問題を残した。 1912年秋までに周辺地域と同様に人種が混合する社会になっていた。1910年国勢調査では、白人10,847人、黒人658人、ムラート440人であり、黒人の構成比は5%を超えたところだった。1912年9月、エレン・グライスが黒人2人に襲われ強姦されそうになったと告訴したのが始まりになった。それは9月5日木曜日の夜に起きていた。9月7日土曜日朝、この暴行未遂事件の容疑で5人の黒人男性が逮捕され、その中にはトニー・ハウェルとイザイア・パークルが含まれていた。その日の午後、黒人教会に属する多くの者達が郡中から集まり、町のすぐ外で開催されたバーベキューに参加した。集まった者達の中に黒人説教師グラント・スミスがおり、犠牲者とされる者の性格に疑問を投げかけた。この発言が白人市民を怒らせ、馬の鞭でスミスを叩いた。スミスは警官に救出され、安全のために郡庁舎に閉じこめられた。その後に白人と黒人市民の間に脅威が生じた。黒人が町を爆破すると脅しているという噂が広がった。白人市民は既にグラント・スミスのことで激怒しており、300人しかいない町に500人の暴徒集団を作り始め、監獄に押し入って、収監されている黒人をリンチにする話が出てきた。事態が悪化したので、午後1時半には保安官がその代理25人を任命し、州知事に電話を掛けて近くのゲインズビル市から23人の州兵を要請した。 翌9月8日日曜日、現在は州道369号線が通るブラウンの橋近く、オスカービルの町で、午後にメイ・クロウ(18歳)が叔母の家に向かっているときに、近隣の農場で労働者として働いているアーネスト・コックス(16歳)に襲われた。コックスは森の中にクロウを引きずり込み、頭を石で殴り、強姦した。コックスはその友人が教会から近くの道路を家に戻っているのを聞き、死んだと思ったクロウを森に放置し、友人にはそのことを話した。オスカー・ダニエル(17歳)、トラッシー・ダニエル(21歳)およびその同居しているボーイフレンドのロブ・エドワーズ(24歳)が現場に連れて行かれた。メイ・クロウは死んだと思われ、半分裸で血の海に浸かって森に残されていた。クロウは翌9月9日朝に発見された。重傷を負ったコックスは短時間意識を取り戻し、襲撃者としてコックスの名前をだすことができたが、どの新聞にもこの記録は載らなかった。現場ではコックスの持ち物である小さな丸い手鏡が発見され、コックスを犯罪に結びつけた。その朝コックスが逮捕され、その時点では自白した。カミングで2日前にトラブルが起こっており、コックスがまずゲインズビル市監獄に収監された時に、リンチを目指した暴徒がゲインズビル市に集まり始めたので、コックスはアトランタの監獄に移された。 翌9月10日火曜日朝、コックスが現場に連れて行ったコックスの友人がメイ・クロウ襲撃に関連して逮捕された。オスカー・ダニエルとロブ・エドワーズは強姦を行った容疑で、トラッシー・ダニエルは犯罪を知りながら通報しなかったことで共犯者として、黒人の隣人であるエド・コリンズは目撃者として拘束された。リンチ暴徒を引き起こす可能性が無視されたまま、彼等は小さなカミングの監獄に拘束された。「アトランタ・ジャーナル」紙の記事では、リード保安官が、黒人容疑者をリンチするために車を止めようとした2,000人の暴徒の中を運転していったと報じていた。数時間のうちに暴徒の数は4,000人に膨れあがり、監獄に殺到した。リード保安官は囚人を守るために副官のミッチェル・ラマス一人を残していた。ラマスは囚人を隠したが、ロブ・エドワーズがその独房にいる間に暴徒に撃たれた。暴徒はその体を鉄製タイヤで切断し、荷車の後に繋いだその体を広場の周りで引き摺り、メインストリートとトリブルギャップ道路の交差点(広場の北西隅)にあった電話柱に吊した。 クロウは、一晩中冷たい空気に放置され、ほとんど裸同然で見つかった結果として肺炎を患い、2週間後の9月23日月曜日に死んだ。その1週間前に19歳になっていた。9月30日月曜日、オスカー・ダニエルとアーネスト・コックスは強姦と殺人容疑で起訴された。トラッシー・ダニエルとエド・コリンズも共謀で起訴された。 エレン・グライス強姦容疑者のトニー・ハウェルを含め5人の裁判は、郡庁所在地のカミングで10月3日木曜日に行われることになった。囚人はビュフォードまで列車で州兵4個中隊に護衛されて移送され、そこから先は残り14マイル (23 km) を歩いた。 「アトランタ・コンスティチューション」10月4日付けの記事では「強姦容疑のコックスは裸足の田舎者ニグロであり、青いオーバーオールと色あせた青のシャツの2つを来ているだけである。額の狭いゴリラのようなニグロであり、その態度は今日の裁判を通じて粗野そのものだった。およそ23歳である。オスカー・ダニエルは幾らか若く、もう少し人間らしい容貌だが、裸足で残忍なタイプの者に属している。」と表現していた。 トニー・ハウェルは証拠不十分で先送りにされた。トニーは証人のイザイア・パークルとのアリバイがあった。この事件はその後取り消され、裁判が行われることは無かった。 エド・コリンズとトラッシー・ダニエルに対する告訴は、トラッシーがその供述を変え、突然司法取引でその兄弟に対する不利な証言をすることに同意したことで免訴になった。トラッシーは、アーネストが犯罪現場に彼等を連れて行った後、弟のオスカーと同居ボーイフレンドのロブが一晩中交互にクロウを強姦し、トラッシーはランタンを持ってそれを見ていたと証言した。アーネスト・コックスの裁判は自白、証拠および多くの証言でスムーズに運んだ。全員が白人の陪審員は16分間の協議後に有罪判決を持って戻った。オスカーについては自白も証拠も無かったが、姉の供述のみで有罪となった。やはり全員が白人の陪審員は46分間の協議後に、午後9時45分、有罪判決を持って戻った。翌10月4日金曜日、2人の被告は10月25日に非公開絞首刑を行うと宣告された。州法によれば、処刑は犠牲者の家族、牧師、執行官を除き、非公開とされていた。 処刑の時になると、カミングの広場近くにあるアンセル・ストリクランド博士の庭に処刑台が建てられた。処刑台の周りには塀が建てられたが、市民が処刑前夜にそれを燃やしてしまった。5,000人ないし8,000人の群衆が処刑を見るために集まった。郡人口が12,000人ほどだったことを考えれば、これは大きな数字だった。 それから数か月のうちに、郡内に住んでいた黒人の98%が郡を離れたと推計されている。「ナイトライダーズ」と呼ばれる小さな集団が、黒人を襲い、24時間以内に立ち去らなければ殺すと脅したとされている。黒人が去ろうとしなければ、その家に銃弾が撃ち込まれ、あるいは家畜が殺された。それを止めようとした白人もいたが、恐怖の方が強かった。反黒人浄化運動は北ジョージア全体に広がり、周辺郡でも同じようなことが起きた。 1920年の国勢調査では、フォーサイス郡に住む非白人は30人しかいなかった。その家産を売却した者がおれば、そうしなかった者もいた。間借り人は去っていくだけだった。その資産を放棄した者はそれを失い、州法によって隣人が7年間税金を払えばその資産を合法的に所有できるとしていた。2010年の国勢調査でもフォーサイス郡人口の85%は白人である。 クー・クラックス・クランの動きが始まったのは、3年経った後のことであり、リード保安官や陪審員の数人がメンバーに入っていたとされている。モリス判事と被告弁護人のフレッド・モリスは、3年後に起きたレオ・フランクのリンチ現場に居合わせた。 アーネスト・コックスとオスカー・ダニエルは、ジョージア州で処刑された者とにして最年少の部類だった。17歳未満で犯罪を犯した者への処刑を禁じたのは1978年になってからだった。
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