1912年の活動
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「リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の記事における「1912年の活動」の解説
1911年から1912年にかけての冬は、リューリクの乗員にとっては前年の夏と変わりなかった。計画的な修繕作業が行われ、専門ごとの課題や閲兵、小銃や回転式拳銃を用いた射撃訓練が実施された。水兵への操典教育や士官への講義では、1812年の祖国戦争での出来事がしばしば言及された。ロシアでは、ボナパルトの撃破と放逐100 周年を祝う式典への準備が着々と行われていた。 4月21日、リューリクはM・K・バーヒレフ海軍大佐の指揮の下、檣頭旗を掲げてこの年の活動を開始した。4月26日、バルト海海軍司令官旗を掲げたリューリクは、戦列艦ツェサレーヴィチ、スラヴァ、艦隊水雷艇隊とともにレーヴェリへ移動した、越冬時期が長かったため、船体喫水線下部の検査と修繕が必要となり、5月18日にはリューリクは船渠入りするためクロンシュタットへ向けて出港した。 修理は2 週間に及び、6月初めにリューリクは戦隊と合流した。リューリクは何回もの短期間の航海を行い、単艦での、あるいは合同での機動演習と射撃訓練に従事した。訓練のぎっしり詰まった予定計画表は、ときどき祝日によって中断されていた。6月には皇帝ピョートル大帝による開港記念日があり、ドイツから皇帝ヴィルヘルム2世の乗った皇室ヨット・ホーエンツォレルンの訪問を受けた。7月にはハンゲの海戦の記念日があり、イギリス艦船がレーヴェリを訪問した。 イギリス艦隊が去ると、マリーヤ・フョードロヴナ皇后を乗せた皇室ヨット・ポリャールナヤ・ズヴェズダーを護衛するため、海軍省はバルト連合艦隊 に対してデンマークへの遠征準備を命じた。皇后はコペンハーゲンに住む親戚を訪問する予定であった。9月8日 4時、連合艦隊はエッセン海軍中将の将官旗を掲げたリューリクを先頭に、戦列艦アンドレイ・ペルヴォズヴァーンヌイ、インペラートル・パーヴェル1世、ツェサレーヴィチ、スラ装甲巡洋艦グロモボーイ、アドミラール・マカーロフ、パルラーダ、バヤーン、機雷敷設艦アムール、エニセイ、輸送船オケアーン、2 個艦隊水雷艇隊を引き連れてレーヴェリ停泊地から碇を上げ、西に向かった。 翌9日は朝8時から夕方5時まで、2 列での機動を行った。海軍司令官はその出来栄えに完全に満足した。9月11日午後11時には、艦隊は大ベルト海峡に達した。翌12日にはコペンハーゲン停泊地に入り、それぞれに場所に停泊した。ポリャールナヤ・ズヴェズダーが最初の礼砲を発射した。それに続いてイギリスの王室ヨット・ヴィクトリア・アンド・アルバートが礼砲を発射した。エッセン提督は報告書を持ってポリャールナヤ・ズヴェズダーを訪問し、報告ののち司令部員および艦長らとともに皇后の朝食に招待された。 9月13日 には、デンマーク国王クリスチャン10世の誕生日を祝うため艦船には満艦飾が施され、正午には全艦からの祝砲が発射された。この日の正午近く、寡のマリーヤ・フョードロヴナ皇后がリューリクを訪れた。その場に艦隊実習生として居合わせたN・A・モナストィリョーフは後年、「彼女はゆっくりと士官の隊列に沿って歩き、一人ひとりに手を差し出した。その後、マリーヤ・フョードロヴナは水兵の近くに歩み寄り、一度彼らへ頭を下げていくつかの優しい言葉を仰った」と回想している。続いて、この高貴なる来賓は将官サロンと将校集会室を視察した。その後、皇后はエッセン海軍中将を伴って艦隊水雷艇ノヴィークに乗って艦隊のほかの艦船を回り、見事に飾った艦船やその元気一杯の乗員たちの様子を観覧した。皇后はたいへん満足して一度ならずその喜びを表し、バルト海軍司令官やとりわけリューリクの艦長たるM・K・バーヒレフ海軍大佐に感謝の意を表した。 その翌日は、デンマーク国王がロシア艦隊を訪問した記念すべき日となった。午前11時近くに王室ヨット・ダンネブロは王の檣頭旗を掲げた。まもなく、エッセン海軍中将と一等艦長らが謁見のためそこを訪れた。紹介の式典のあとヨットは港を出て沖合い停泊地へ移動し、リューリクの近くに投錨した。王は、この軍艦を個人的に視察することを希望した。巡洋艦の乗員たちにとって高貴な来客はすでに慣れっこになっていたが、今回ばかりは式典が危うく不面目に終わりそうになった。というのは、デンマーク王は乗員たちと挨拶を交わしたのだが、ひどい訛のあるロシア語で「やあどうだい、兄弟(Здорово, братцы)」と言ったものだから、多くの士官や艦隊実習生は笑いの漏れるのを堪え切れなかった。幸い、乗員たちの大声による断続的な返礼のお蔭で士官列からの笑いは掻き消され、続いて怒ったロシア語の「万歳(ура)」に王は大いに喜んだ。 高貴なる君の訪問ののち、巡洋艦は観覧者で溢れ返った。彼らの多くは艦の調度に興味津々であった。デンマーク人たちの寄せた関心は、偽りのものではなかった。それほど、ロシア艦隊がコペンハーゲンを正式訪問したのは久しぶりのことであった。毎日通りには休暇をもらった水兵で満たされ、デンマークの首都の人々の興味をその非の打ち所のない外見と動作に引き寄せていた。ロシア水兵の振る舞いは、まったく申し分のないものであった。訪問3 日目にして最後の日となる9月15日 夕刻、リューリクの乗員たちは盛大な舞踏会を催した。そこには、都市貴族の清華と外交団が招かれた。大型巡洋艦の艦尾部分全体が巧みに飾られ照明され、大きな、しかし快適なダンスホールに変えられていた。そこには、恐らく500 名以上が招待されたものと見られている。甲板に上がる際にはすべての婦人方に花束が贈呈され、その袖には「リューリク」と記されたリボンが結ばれた。夜会は栄華のうちに過ぎていった。 翌朝、ロシア艦船は碇を上げてもてなし好きのコペンハーゲンを後にした。無線電報を通じてマリーヤ・フョードロヴナはヨット・ポリャールナヤ・ズヴェズダー上から餞の言葉を述べた。「私は皆に会えて嬉しかったと艦隊へ伝えて下さい。何もかも本当によかった。航海の幸運をお祈り致します。」 9月16日 深夜近く、艦隊は大ベルト海峡を通過してバルト海へ出た。そこで連合艦隊は散開した。艦隊水雷艇隊と巡洋艦隊は石炭を積むためリバーヴァへ向かい、戦列艦隊と機雷敷設艦隊はレーヴェリへ向かった。ところどころに花崗岩の断崖が聳える狭く平坦な岸は、右舷沿いにどんどんと遠ざかっていった。少しずつボーンホルム島の位大きな塊が艦尾に消えていった。天候が幸いし、航海は順調に進んだ。秋なのにバルト海は驚くほど穏やかで、フィンランド湾口に来てようやく艦隊はひどい時化に遭遇した。しかしながら、強い波と雨にも拘らず、リューリクに率いられた戦列艦戦隊は無事にスーロプ通路を通過し、9月19日 午前3時にレーヴェリ停泊地に碇を下ろした。 外国への航海は、バルト海海軍にとって実施した遠征の中で唯一の輝かしいエピソードとなった。11月中旬、リューリクは戦列艦戦隊とともにゲリシンクフォールスへ移動し、11月21日に武装予備役 に入った。
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