1912年の活動とは? わかりやすく解説

1912年の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 14:50 UTC 版)

リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の記事における「1912年の活動」の解説

1911年から1912年にかけての冬は、リューリク乗員にとっては前年の夏と変わりなかった。計画的な修繕作業が行われ、専門ごとの課題閲兵小銃回転式拳銃用いた射撃訓練実施された。水兵への操典教育士官への講義では、1812年祖国戦争での出来事がしばしば言及された。ロシアでは、ボナパルト撃破放逐100 周年を祝う式典への準備着々と行われていた。 4月21日リューリクM・K・バーヒレフ海軍大佐指揮の下、檣頭旗を掲げてこの年活動開始した4月26日バルト海海軍司令官旗を掲げたリューリクは、戦列艦ツェサレーヴィチスラヴァ艦隊水雷艇とともにレーヴェリ移動した越冬時期長かったため、船体喫水線下部検査修繕が必要となり、5月18日にはリューリク船渠入りするためクロンシュタット向けて出港した修理2 週間に及び、6月初めにリューリク戦隊合流したリューリク何回もの短期間航海行い、単艦での、あるいは合同での機動演習射撃訓練従事した訓練のぎっしり詰まった予定計画表は、ときどき祝日によって中断されていた。6月には皇帝ピョートル大帝による開港記念日があり、ドイツから皇帝ヴィルヘルム2世乗った皇室ヨット・ホーエンツォレルンの訪問受けた7月にはハンゲの海戦記念日があり、イギリス艦船レーヴェリ訪問したイギリス艦隊が去ると、マリーヤ・フョードロヴナ皇后乗せた皇室ヨット・ポリャールナヤ・ズヴェズダーを護衛するため、海軍省バルト連合艦隊 に対してデンマークへの遠征準備命じた皇后コペンハーゲンに住む親戚訪問する予定であった9月8日 4時連合艦隊エッセン海軍中将将官旗を掲げたリューリク先頭に、戦列艦アンドレイ・ペルヴォズヴァーンヌイ、インペラートル・パーヴェル1世ツェサレーヴィチスラ装甲巡洋艦グロモボーイアドミラール・マカーロフパルラーダ、バヤーン、機雷敷設艦アムールエニセイ輸送船オケアーン、2 個艦隊水雷艇隊を引き連れてレーヴェリ停泊地から碇を上げ、西に向かった。 翌9日は朝8時から夕方5時まで、2 列での機動行った海軍司令官はその出来栄えに完全に満足した9月11日午後11時には艦隊大ベルト海峡達した。翌12日にはコペンハーゲン停泊地入りそれぞれに場所に停泊した。ポリャールナヤ・ズヴェズダーが最初礼砲発射した。それに続いてイギリスの王室ヨット・ヴィクトリア・アンド・アルバートが礼砲発射したエッセン提督報告書持ってポリャールナヤ・ズヴェズダーを訪問し報告ののち司令部員および艦長とともに皇后朝食招待された。 9月13日 には、デンマーク国王クリスチャン10世誕生日を祝うため艦船には満艦飾施され正午には全艦からの祝砲発射された。この日の正午近く、寡のマリーヤ・フョードロヴナ皇后リューリク訪れたその場艦隊実習生として居合わせたN・A・モナストィリョーフは後年、「彼女はゆっくりと士官隊列沿って歩き一人ひとりに手を差し出したその後、マリーヤ・フョードロヴナは水兵近く歩み寄り一度彼らへ頭を下げていくつかの優しい言葉仰った」と回想している。続いて、この高貴な来賓将官サロン将校集会室視察したその後皇后エッセン海軍中将伴って艦隊水雷艇ノヴィークに乗って艦隊のほかの艦船回り見事に飾った艦船やその元気一杯乗員たちの様子観覧した。皇后はたいへん満足して一度ならずその喜び表しバルト海軍司令官とりわけリューリク艦長たるM・K・バーヒレフ海軍大佐感謝の意表した。 その翌日は、デンマーク国王ロシア艦隊訪問した記念すべき日となった午前11近く王室ヨット・ダンネブロは王の檣頭旗を掲げた。まもなく、エッセン海軍中将一等艦長らが謁見のためそこを訪れた紹介式典のあとヨットは港を出て沖合い停泊地移動しリューリク近く投錨した。王は、この軍艦個人的に視察することを希望した巡洋艦乗員たちにとって高貴な来客はすでに慣れっこになっていたが、今回ばかりは式典危うく不面目終わりそうになった。というのは、デンマーク王乗員たちと挨拶交わしたのだが、ひどい訛のあるロシア語で「やあどうだい兄弟(Здорово, братцы)」と言ったものだから多く士官艦隊実習生笑い漏れるのを堪え切れなかった。幸い、乗員たちの大声による断続的な返礼お蔭で士官列からの笑い掻き消され続いて怒ったロシア語の「歳(ура)」に王は大い喜んだ高貴なる君の訪問ののち、巡洋艦観覧者溢れ返った。彼らの多くは艦の調度興味津々であったデンマーク人たちの寄せた関心は、偽りのものではなかった。それほどロシア艦隊コペンハーゲンを正式訪問したのは久しぶりのことであった毎日通りには休暇もらった水兵満たされデンマーク首都人々興味をその非の打ち所のない外見動作引き寄せていた。ロシア水兵振る舞いは、まったく申し分のないものであった訪問3 日目にして最後の日となる9月15日 夕刻リューリク乗員たちは盛大な舞踏会催した。そこには、都市貴族清華外交団招かれた。大型巡洋艦艦尾部分全体巧みに飾られ照明され大きな、しかし快適なダンスホール変えられていた。そこには、恐らく500 名以上が招待されたものと見られている。甲板上がる際にはすべての婦人方に花束贈呈され、その袖には「リューリク」と記されリボン結ばれた夜会栄華のうちに過ぎていった。 翌朝ロシア艦船は碇を上げてもてなし好きのコペンハーゲンを後にした。無線電報通じてマリーヤ・フョードロヴナはヨット・ポリャールナヤ・ズヴェズダー上から餞の言葉述べた。「私は皆に会え嬉しかった艦隊伝えて下さい何もかも本当によかった航海幸運お祈り致します。」 9月16日 深夜近く艦隊大ベルト海峡通過してバルト海出た。そこで連合艦隊散開した艦隊水雷艇隊と巡洋艦隊は石炭を積むためリバーヴァへ向かい戦列艦隊と機雷敷設艦隊はレーヴェリ向かったところどころ花崗岩断崖聳える狭く平坦な岸は、右舷沿いにどんどんと遠ざかっていった。少しずつボーンホルム島の位大きな塊が艦尾消えていった。天候幸いし航海順調に進んだ。秋なのにバルト海は驚くほど穏やかで、フィンランド湾口に来てようやく艦隊はひどい時化遭遇したしかしながら、強い波とにも拘らずリューリク率いられ戦列艦戦隊無事にスーロプ通路通過し9月19日 午前3時レーヴェリ停泊地に碇を下ろした外国への航海は、バルト海海軍にとって実施した遠征の中で唯一の輝かしエピソードとなった11月中旬リューリク戦列艦戦隊とともにゲリシンクフォールスへ移動し11月21日武装予備役入った

※この「1912年の活動」の解説は、「リューリク (装甲巡洋艦・2代)」の解説の一部です。
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