1913-1921年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 05:21 UTC 版)
「ローベルト・ヴァルザー」の記事における「1913-1921年」の解説
1913年、ヴァルザーは徒歩でスイスへ向かった。スイスへの帰郷は社会そして文学界から私的な領域への退却だった。外界との継続的な接触は、この時期、ほとんど確認されていない。書くためのインスピレーションをヴァルザーが見出したのは、自然の中をゆく長時間の散歩だった。住む場所を変えたことは、実際、作品内容の変化、文章スタイルの変容にも反映されている。すなわち、大都市をめぐる主題からの決別、牧歌への接近である。しかし、そこで描かれる牧歌的世界は絶えずほころびを見せ、時代を支配している危機の刻印を受けている。 帰郷して最初の数年、故郷におけるよそ者、かつ、慣れ親しんだ者として、ヴァルザーは語り手に– 性急で扇情的な世界都市ベルリンに比しての − 小都市の安らかさと「重要性のなさ」を発見させた。散文作品「夕刻の散歩」でヴァルザーは書いている。 「大地は奇妙なまでに暗く、家々は明るく静かに立ち並び、感じの良い、緑の鎧戸があの喜ばしげな、愛らしい、勝手知ったる響きを立てていた。そこここに数人かたまって、真面目そうな、日曜日らしい出で立ちの人たちがいた。男たち、女たち、それに子どもたち。子どもたちは柔らかな湿った道の上で春の遊びをしていた [・・・] わたしは念を入れ慎重に歩を進め、何度も足を止めては振り返った、まるであれやこれやの美しいものが自分から失われてしまうかのように。」 牧歌との断絶は、喪失の可能性によって、すでに暗示されている。1914年の開戦によって、この安らぎの脆さはますます明らかになっていった。テクストにはむしろアイロニーが含まれており、さらには危機の時代ならでは不安定、そして不安も透けて見える。戦争や兵士の存在もまた幾つかのテクストの中で主題化されている。 「眼前には柔らかな、かけがえのない、心地よいわたしの故郷が、何にもまして愛するわたしの美しい妻が、わたしの可愛い子どもたちがあった。眼前にはしかしまた、わたしが投げ出したサーベル、わたしが逃げ出してきた戦闘もあった。」 書物の刊行数で見れば、ビール時代の成果は豊かである。比較的長い作品は『散歩』(1917年)のみであるが、代わりに散文小品を集めた作品集が多く生まれている。その大部分はすでに20を越える新聞や雑誌(『新メルキュール誌(Der Neue Merkur)』、『ブント紙(Der Bund)』、『新チューリヒ新聞(Neue Züricher Zeitung)』等)で散発的に発表されたものであったが、唯一、『散文小品集』は未発表の素材を集めた書物となっている。『散歩』(1917年)は最初、フラウエンフェルトのフーバー社より「スイス物語作者シリーズ(Schweizer Erzähler)」の9冊目の書物として刊行され、それから大きく手を入れられて、1919年作品集『湖水地方(Seeland)』に再掲載された。この推敲のやり方は「ビール時代のヴァルザーによく見られるやり方であって、その後、誕生することになる鉛筆書きによる執筆方法を予告するものであった。」 ビール時代に生まれた作品集『作文集』(1913年)、『物語集』(1914年)、『小詩文集』(1915年、奥付は1914年)はライプチヒのクルト・ヴォルフ社から、『散文小品集』(1917年)はチューリヒのラッシャー社から、『小散文集』(1917年)、『詩人の生』(1917年、奥付は1918年)、『湖水地方』(1920年、奥付は1919年)はベルンのアレクサンダー・フランケ社から刊行された。ベルリンのブルーノ・カッシーラー社から刊行された『喜劇(Komödie)』と『詩集(Gedichte)』(ともに1919年)は成立時期を遡り、初期の作品を所収している。この作品がヴァルザーにとって、ふたたび叙情詩に向かうきっかけとなったというのはあくまでも推測である。ヴァルザーが1919年に雑誌『プロ・ヘルヴェティア(Pro Helvetia)』に発表すべく一篇の詩を送っていることは資料によって確認されている(1919年3月19日付の手紙)。ビール時代の終わりは第二の叙情詩執筆時期の始まりとなっている。
※この「1913-1921年」の解説は、「ローベルト・ヴァルザー」の解説の一部です。
「1913-1921年」を含む「ローベルト・ヴァルザー」の記事については、「ローベルト・ヴァルザー」の概要を参照ください。
- 1913-1921年のページへのリンク