1913–1929年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 05:21 UTC 版)
「ローベルト・ヴァルザー」の記事における「1913–1929年」の解説
1913年にヴァルザーはスイスへ帰国し、当初はビール近郊のベレレー(Bellelay)の精神病院で教師をしていた姉のリーザのもとに身を寄せた。そこでヴァルザーは洗濯女として働いていたフリーダ・メルメ(Frieda Mermet)と知り合い、以来、二人はその後続く手紙のやりとりに読み取ることのできるような親密な友人関係を結ぶこととなった。ヴァルザーはその後、ビール市内の父の家でしばらく暮らし、1913年7月には「青十字ホテル(Hotel Blaues Kreuz)」の屋根裏部屋に移り、1920年までそこで暮らした。父は1914年に他界している。 第一次世界大戦中、ヴァルザーは数度にわたって兵役義務を果たさなければならなかった。1916年末には、数年前より精神の病を患っていた次兄エルンスト(Ernst)がヴァルダウ(Waldau)の精神病院で死んだ。1919年には、ベルン大学の地理学教授となっていた長兄ヘルマン(Hermann)も自ら命を絶った。この時期、戦争のためにドイツとの関係も絶たれたヴァルザーは、孤独の中を生きていた。著作活動は熱心に行っていたが、執筆で食べていくことは非常に厳しい状況であった。 ビール時代、ヴァルザーは散文小品を多数執筆し、それらはドイツやスイスの新聞、雑誌に発表されるともに、『作文集(Aufsätze)』(1913年)、『物語集(Geschichten)』(1914年)、『小詩文集(Kleine Dichtungen)』(1915年、奥付は1914年)、『散文小品集(Prosastücke)』(1917年)、『小散文集(Kleine Prosa)』(1917年)、『詩人の生(Poetenleben)』(1917年、奥付は1918年)、『喜劇(Komödie)』(1919年)、『湖水地方(Seeland)』(1920年、奥付は1919年)などの書物に編まれて刊行された。 このうち『小詩文集』は1914年、「ラインラント詩人の顕彰のための女性協会(Frauenbund zur Ehrung rheinländischer Dichter)」による賞を受賞し、女性協会のために初版が出版された。1917年にはこの時期唯一の中編作品である『散歩(Spaziergang)』が書かれている。 ヴァルザーは終生、散歩を愛好したが、とりわけこの時期は、長い徒歩旅行を繰り返し行い、まさに強行軍と呼ぶべき夜間の徒歩旅行も何度か試みている。この時期の散文小品には、近くにありながらも異郷となった世界を「他者」として歩いてゆく歩行者の視点から語られる作品、また、作家や芸術家をめぐって戯れるように書かれた作品が見られる。1913年から1921年のビール在住期間には「古くかつ新しい環境への関心」 がみられ、形式的、主題的には自然観察と牧歌的テーマへの転調が認められる。 1921年初め、ヴァルザーはベルンへ転居し、数ヶ月をこの都市の公文書館の「臨時職員」として過ごした。今日では散逸してしまった長編小説『テオドール(Theodor)』が書かれたのはこの時期である。ベルンでは世間から引きこもった生活を送り、12年間に16の家具付き部屋を転々と移り住んだ。
※この「1913–1929年」の解説は、「ローベルト・ヴァルザー」の解説の一部です。
「1913–1929年」を含む「ローベルト・ヴァルザー」の記事については、「ローベルト・ヴァルザー」の概要を参照ください。
- 1913–1929年のページへのリンク