朝鮮通信使遺跡
鞆福禅寺境内
牛窓本蓮寺境内
興津清見寺境内
鞆福禅寺境内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 05:45 UTC 版)
詳細は「福禅寺 (福山市)」を参照 鞆は瀬戸内海の風待ち・潮待ち港であり、全12回の朝鮮通信使のうち、対馬で使節を応接した第12回以外の11回、鞆が宿泊地となっている。鞆では福山藩が使節の接待役を担当し、三使らの宿泊先は福禅寺の客殿(のちに「対潮楼」と名付けられる)であった。客殿は単層入母屋造、本瓦葺で、福山藩によって寛永年間(1690年頃)に創建された。 対潮楼からは弁天島と仙酔島が浮かぶ瀬戸内海の美しい風景が望まれ、使節一行に好評であった。寛延元年(1748年)の使節来訪の際は、藩主の阿部正福が病気で江戸藩邸に滞在していたため、事情をよく知らない者が使節の接待を担当し、阿弥陀寺という別の寺院を宿舎に定めた。宿舎が対潮楼ではないと知った使節一行は怒り出し、船に戻ってしまったという逸話が残されている。 福禅寺には使節の残した扁額などの書跡が残っており、「福禅寺対潮楼朝鮮通信使関係史料28点」として福山市重要文化財に指定されている。そのなかには正徳元年(1711年)の通信使の従事官李邦彦の書「日東第一形勝」や、寛延元年(1748年)の通信使洪景海の書「対潮楼」などがある。福禅寺客殿を「対潮楼」と名付けたのは同年の使節の正使洪啓禧であり、その息子の洪景海に額字を書かせた。
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