鞍の戦いとは? わかりやすく解説

鞍の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/12 15:24 UTC 版)

頃公 (斉)」の記事における「鞍の戦い」の解説

このような中、隣国変節外交展開し・斉の怒りを買うところとなった。だが、斉が密かに通じている事も知られる事になり、通じて晋もこの事を知り、斉に対して怒り覚えた紀元前589年(周定王十八年)、斉は機先を制し三軍起こし侵攻した一軍救おうとした衛を退けたが、攻めている二軍侵攻芳しくなった。斉軍留まり、晋軍が出てくるのを待った。この時、楚軍北上して斉軍と共に晋軍を伐つ手はずになっていたが、連絡使者勤めていた巫臣任務放棄して鄭に居座ってしまったために、連絡途切れて協力体制崩れ斉軍だけで晋軍と相対せねばならなくなった6月18日斉軍不注山に布陣した。その後、晋軍も斉軍も鞍に布陣して開戦した(そのため通常は鞍の戦いと呼ばれる不注山の戦いと呼ぶこともある)。最初斉軍元帥郤克重傷負わせるほど優勢であったが、郤克必死逆襲逆転し斉軍遂に潰走始めた。その最中大臣の高固が戦死した頃公も晋軍に追われ不注山を3周して逃げ回ったという。頃公の車右は、頃公と立つ位置代わり頃公兵車が晋軍の司馬韓厥捕まった時、自分君主と言って頃公代わりに捕らわれ頃公逃がした頃公は無事、首都臨淄帰り着いたが、この戦役紛れもなく大敗だった。

※この「鞍の戦い」の解説は、「頃公 (斉)」の解説の一部です。
「鞍の戦い」を含む「頃公 (斉)」の記事については、「頃公 (斉)」の概要を参照ください。


鞍の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:28 UTC 版)

郤克」の記事における「鞍の戦い」の解説

この後郤克は、紀元前589年同盟国と衛が斉に攻め込まれて晋に救援要請をしてきたのを受けて、晋軍を率いて斉へ攻め込んだ(鞍の戦い、若しくは不注山の戦い)。この戦いにおいて、郤克一時は死を覚悟するほどの重傷負ったが、それをも省みずに晋軍を鼓舞したため、遂に晋軍は斉軍完膚なきまでに打ち破った郤克その後和平交渉にて、斉の使者の国佐に対し同叔子を人質によこす事と、晋軍が再び斉に攻め入りやすくするために田畑の畝を東西方向揃えるように要求するが、同席していた将の季孫行父説得で、ようやく和議受け入れた

※この「鞍の戦い」の解説は、「郤克」の解説の一部です。
「鞍の戦い」を含む「郤克」の記事については、「郤克」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「鞍の戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鞍の戦い」の関連用語

鞍の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鞍の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの頃公 (斉) (改訂履歴)、郤克 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS