靖国神社の存続とカトリック教会とは? わかりやすく解説

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靖国神社の存続とカトリック教会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:58 UTC 版)

靖国神社」の記事における「靖国神社の存続とカトリック教会」の解説

パトリック・バーン」を参照 終戦後靖国神社存続したことについて、以下のような逸話語られている。戦後日本占領したGHQは、1945年昭和20年)、靖国神社焼き払いドッグレース場を建設する計画立てていたが、賛否両論巻き起こり収拾が付かなくなっていた。そこでローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったブルーノ・ビッテルBruno Bitter、英語読みでビッターとなっている場合あり)神父メリノール宣教会パトリック・バーン神父意見求めることになった(しかし、逸話異なり実際ビッテル上智大学学長になったことは一度もなく、占領期教皇庁代理人でもなかった。日本における教皇庁代理人駐日教皇使節パオロ・マレーラであった)。ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理なければならない。」「靖国神社焼却する事は、連合国軍占領政策相容れない犯罪行為である。」と述べ次の言葉締め括った。 「靖国神社国家神道中枢で、誤った国家主義根源であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ神道仏教キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社その霊まつられるようにすることを、進言するのである。」 この進言により靖国神社焼き払い免れたという。バーン神父ビッテル神父同趣旨の進言をした。さらに1951年昭和26年)、ローマ教皇庁あらため1936年昭和11年)の「祖国に対する信者のつとめ訓令再確認している。 マーク・R・マリンズは、こうしたカトリック神父らが靖国神社救済したという通説は「半分だけ真実」であり、当時資料からははるかに複雑な経緯みられる指摘している。通説反してGHQは、1945年昭和20年)、靖国神社焼き払いドッグレース場を建設する計画立ててはいなかった。米国国務省1944年3月15日付け覚書日本信仰の自由 Japan: Freedom of Worship」で、次のような勧告行っている。 「. . . 第三靖国神社明治神宮乃木神社のような近年設立され国家的英雄を祭る神社である。第三類型属す神社は、軍国主義的国家主義精神鼓舞する神社であり、日本政府も、宗教ではなく愛国主義表現形態であると繰り返し主張しているのであるから、仮に閉鎖命じて信教の自由抵触はしない。ただし、現実的政策としては、国家主義的神社にあっても、強制的閉鎖逆効果を招く恐れもあるので望ましくない公的秩序安全保障反しない限り個人的信仰の対象として公開存続許されるものとする。」 そして、神社本質その将来に関する決定をする前にキリスト教宣教師相談することを推奨している。マッカーサーはその推奨に従ってビッテルバーン接触したビッテルバーン占領期初期靖国神社存続のために懇願行ったことは事実であり、両神父は1945年昭和20年8月後半から10月にかけて靖国神社含め様々な問題に関してマッカーサー個人的な手紙を何通も送り何度も会いGHQスタッフ常時連絡とっていた。しかし、靖国神社存続問題に関してビッテルバーン介入効果取るに足らないものであり、占領期終了間際まで靖国神社存続確定していなかった。ビッテルバーンは、靖国神社宗教的崇拝の場ではなく愛国心表明する市民的儀礼の場であるという(ローマ教皇庁1936年昭和11年)の訓令沿う立場から請願行ったが、最終的に靖国神社存続認められたのは、その宗教的本質GHQ民間情報教育局CIE)の宗教課に承認されたためであった信仰の自由原則確立日本政府要求したGHQは、宗教的な場である靖国神社廃止してその原則に自ら違反することを避け1951年昭和26年9月12日指令宗教団体使用中国有地処分に関する件」で他の宗教団体同様の条件のもとで靖国神社存続認めた1975年昭和50年)には真言宗醍醐派品川寺僧侶仲田順和(のち醍醐寺第百三世座主)が教皇パウロ6世東京裁判戦犯となったものへのミサを行うことを依頼すると、教皇ミサ約束するパウロ6世1978年死亡するが、1980年昭和55年5月21日教皇ヨハネ・パウロ2世パウロ6世遺志引き継ぎA級戦犯BC級戦犯として処刑された人々へのミササン・ピエトロ大聖堂行った。1618位牌納められ五重塔ヨハネ・パウロ2世奉呈された。 2007年平成19年2月21日日本カトリック司教団は、「信教の自由政教分離に関する司教メッセージ」 を発表し、「教会当時布教聖省指針基づいて、『学生神社で行うように政府から命じられ儀式宗教的なものではない』とし、天皇対す忠誠心愛国心を表す『社会的儀礼』であるとして、信徒神社参拝許容しました。こうして、あの戦争協力する方向へと向かってしまったのです。しかし、戦後日本国憲法制定されたこと、国家神道解体され靖国神社一宗教法になったこと、教会第二バチカン公会議経たことなどから、当時布教聖省指針そのままでは現在に当てはめることはできません。」として、戦前の「祖国に対する信者のつとめ」という訓令あり方否定した

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