難波宮跡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 国指定文化財等データベース > 難波宮跡の意味・解説 

難波宮跡
附 法円坂遺跡

名称: 難波宮跡
 附 法円坂遺跡
ふりがな なにわのみやあとつけたりほうえんざかいせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 大阪府
市区町村 大阪市中央区法円坂町・中央区大手前
管理団体 大阪市(昭54・222)
指定年月日 1964.05.02(昭和39.05.02)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 平成19.07.26
解説文: 大阪市街の東辺、南北長く連る上町台地は、早くから開発されていたところであって古史にしばしば見え難波の地は、ここに求むべきであろう
続日本紀聖武天皇天平16年2月の条に「今以難波宮定爲皇都」と見え難波宮首都となったが、翌17年5月には都は平城移されている。
この故地は明らかでなかったが、最近上町台地北端部、大坂城外堀南方程近いところにおいて、奈良時代朝堂院大極殿小安殿内裏大安殿の跡等が檢出された。
大極殿は、南北21メートル東西推定42メートル基壇有し、その南面北面にはそれぞれ三ヶ所ずつの階段があったと認められる。この北に近く南北12メートル東西33メートル基壇があり、小安殿の跡と認められる
大極殿南方広場をなし、かつ小安殿東面には、廻廊遺構遺存し、彼此合わせ考えて大極殿中心として廻廊が繞っていたと察せられ、広場西南隅に東西延び落溝が発見されている。すなわちこの地域は、朝堂院大極殿地区であり、この南方朝堂等が建てられていたのである
この大極殿地区北方には、北面は詳かではないが、南、東および西の三方掘立柱廻廊を繞らす内裏があり、その中央部掘立柱の跡によって桁行東西)9間、梁行南北)4間と認められる建物、すなわち大安殿の跡がある。また西廻廊外側には周垣の一部推定される南北延び築地の跡がある。
ここに注意すべきは、上記遺跡或いは複合し或いは独立し、しかも大極殿大安殿等と中軸線を等しくする建物遺構掘立柱穴・石敷等)が檢出されていることであって、その状況により、聖武天皇以前のもの認められ、しかもその特殊かつ雄大な規模配列から見て、これも宮殿遺跡と察せられる
元來難波の地には、難波長柄豊碕宮以後も、陪都如きものとして、難波宮存続したと認められ摂津職の名もこれに由来するその間聖武天皇御代には皇都ともなったのであるが、延暦12年3月難波大宮」は廃され摂津職摂津国改められている。この特異な意義有する難波宮について調査が行なわれ、調査継続中で全貎をつくしているとはいえないが、聖武天皇難波宮主要部明らかにされ、学術極めて意義あることと認められる
現在地は、市街、特に建設途上にある官庁街中にあり、遺跡湮滅を防ぐことは急務であるが、反面大阪市におけるこの地域現代的性格考慮し目下のところ、保存対象として聖武天皇難波宮大極殿地区内裏中大安殿跡を指定しようとするのである
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  隼上り瓦窯跡  隼人塚  離宮院跡  難波宮跡  雨の宮古墳群  雷山神籠石  雷神山古墳

難波宮

(難波宮跡 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/29 13:30 UTC 版)

難波宮史跡公園(大阪市
復元された大極殿基壇とその手前に八角殿を模した構造物が見える。
難波宮
位置図。

難波宮(なにわのみや)は、現在の大阪市中央区法円坂付近に造営された古代の

天皇の住まい、政治、儀式の場をはっきりした構造は難波宮が最初であり後の宮にも採用された。645年〜793年の約150年間の皇都。また、難波宮から日本という国号、元号の使用が始まったとされ、孝徳天皇改新の詔を発しその第2条で初修京師として難波宮を日本初の首都とした。跡地は国の史跡に指定されている(指定名称は「難波宮跡 附 法円坂遺跡」)。

古墳時代上町台地の先端付近、大王と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇難波高津宮も難波宮が造られた法円坂付近にあったとする説が有力視されている一方、応神天皇難波大隅宮は現在の大阪市東淀川区大桐大隅神社)、欽明天皇の難波祝津宮は兵庫県尼崎市東難波町(難波八幡神社)が比定地とされている。

概要

難波宮の存在は史書(『日本書紀』)には載っていたが[1]第二次世界大戦が終わるまでは所在地は不明なままであった。

難波宮発掘の第一人者、山根徳太郎像

1913年大正2年)、大阪城外堀南の法円坂で、奈良時代のものと見られる数個の重圏文(じゅうけんもん)・蓮華文軒丸瓦(れんげもんのきまるがわら)が発見されていたが、ほとんどの人は省みず、山根徳太郎は注目したが、大日本帝国陸軍が一帯を用地接収していたため、調査自体が不可能だった。1945年(昭和20年)、日本の降伏によって法円坂が陸軍用地から開放され、このとき初めて学術調査の機会が訪れた。

そこで、山根を指導者とする難波宮址顕彰会が何度か予備調査を行い、1953年昭和28年)同所付近から鴟尾(しび)を発見した。このことをきっかけに、1954年(昭和29年)2月から山根らは第一次発掘を開始。しかし、大阪の都心部でビルや道路建設の合間を縫っての発掘・調査は困難を極め、初期の数次の調査では、難波宮の跡なのかどうかがはっきりせず、学会はこれを「山根の宮だ」などと冷笑した[2]

しかし山根らの努力によって、奈良時代の宮の遺構が次第に明らかになり、1957年(昭和32年)南北に続く回廊跡(後期)が見つかった。そればかりでなく、翌1958年(昭和33年)には奈良時代より古いとみられる柱列跡が検出され、その柱穴に焦土が詰まっており、火災の跡であることが明らかになった。つまり、朱鳥元年(686年)正月「難波宮室が全焼した」という『日本書紀』の記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった。1960年(昭和35年)、これが回廊であることを確認。これを前期難波宮という。

1961年(昭和36年)、山根らの発掘により、聖武天皇時代の大極殿跡が発見され、その存在が確認された[3]。これを後期難波宮という。山根は発見当時「われ、幻の大極殿を見たり」という言葉を残した。

前期難波宮

前期難波宮模型(大阪歴史博物館)
前期難波宮模型
朝堂院の北に内裏が隣接する

乙巳の変大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し[4]、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されている[5]

孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、斉明天皇元年1月3日(655年2月14日)に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった(『日本書紀』巻第廿六による)。

天武天皇12年(683年)には天武天皇複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、朱鳥元年(686年)正月に難波の宮室が全焼してしまった[4]

建築物の概要
回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている。前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった。これは、難波宮の荘厳さを示す建物である。
宮殿の中軸線上に三つの門が発見されている。北から内裏の南門、次に朝堂院の南門、宮城の南面中央の門(朱雀門)。内裏南門は東西32.7メートル、南北12.2メートル。日本の歴代宮殿の中でも最大級の規模である。この門は、木製基壇の上に立っている。木製基壇の上に立つ建物は、内裏前殿や八角殿等の中枢部の建物に限られている。朝堂院南門や南面中央門(朱雀門)の平面規模は東西が23.5メートル、南北は8.8メートル。柱は直径約60~80センチという太い柱が使われていた。
天皇の住まい(内裏)と、政治・儀式の場(朝堂院)をはっきりと分離した構造は、前期難波宮が最初であり、後の宮(藤原宮平城宮平安宮など)にも採用された。朝堂院の広さは南北262.8メートル、東西233.6メートルである。その中に東西に7棟ずつ、左右対称に14の朝堂が並んでいる。北から東西とも第一堂、第二堂と順に名付ける。第一堂は南北(桁裄)16.1メートル、東西(梁間)7.9メートルで、第二堂は南北20.5メートル、東西7.0メートルであり、木製基壇の上に立つ。第三・四・五堂と第七堂(南北に並ぶ東西棟二棟の内の南側)は桁裄35.0メートル、梁間5.8メートルである[6]。このように朝堂院の規模が違うのは、着座する人たちの位によって朝堂に格式に差があったことが分かる。14の朝堂が見つかっている。後の宮では12である。
これらの内裏と朝堂院の外側(まわり)に役所(官衙)が存在した。
なお、条坊制の存否については議論がある[7]が、採用されていれば日本最古のものとなる。

後期難波宮

後期難波宮模型(大阪歴史博物館)

奈良時代神亀3年(726年[1][4])に聖武天皇藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京副都とした。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根[注 1]の宮殿が造られた。

その後、聖武天皇は平城京から恭仁京へ遷都を行っているが、天平16年(744年)に入ると難波京への再遷都を考えるようになる。この年の閏1月11日、聖武天皇は行幸を名目に難波宮に入り、2月26日に難波京への遷都の詔が正式に発表された。もっとも、その2日前に聖武天皇は再々遷都を視野に入れて紫香楽宮に行幸しており、難波宮には元正上皇左大臣橘諸兄が残された。このため、聖武天皇と元正上皇との間の政治的対立を想定する説や難波遷都は紫香楽宮の都城設備が完成するまでの一時的な措置であったとする説もある。

最終的に翌天平17年1月1日745年2月6日)、難波京から紫香楽宮へ遷都が正式に発表された。難波遷都も紫香楽遷都も聖武天皇の意向であったと考えられ、短期間での方針変更が混乱を招いたと言えよう[8]

延暦3年(784年[4]桓武天皇により長岡京に遷都された際[9]、大極殿などの建物が長岡京に移築された。

史跡難波宮跡

現在、難波宮の跡地の一部は難波宮跡公園として整備されている。

難波宮の遺跡は現在の馬場町法円坂大手前4丁目付辺に及んでおり、大阪歴史博物館やNHK大阪放送会館の複合施設がある一角も難波宮の跡である。大阪歴史博物館の地下1階では、地下遺跡の様子を見学することができる。同博物館前にある茅葺きの高床倉庫は、法円坂遺跡で見つかった5世紀(古墳時代)の巨大高床倉庫群のうち1棟を復元したものである。難波宮以前から重要な交通拠点となっていた難波津の遺構である。

難波宮跡公園の場所は、明治4年(1871年)以降に兵部省(のち陸軍省)の管轄地となり、1945年昭和20年)の敗戦時には歩兵第8連隊が置かれていた。占領軍の接収解除後すぐに鴟尾が発見されたこともあり、開発の手から免れ広大な敷地の確保が可能となった。

難波宮跡公園の北側を東西に通る府道高速大阪東大阪線(阪神高速道路東大阪線)は、ほぼ全線が高架構造にもかかわらず、難波宮跡付近の部分だけ平面となっている。これは、建設に先立つ事前協議の結果、難波宮跡の遺構の保存と難波宮跡公園から大坂城跡への景観を確保するために「平面案」が採用された為である[10]。しかし、この突如として現れる急な勾配区間のために、事故や渋滞の原因となることも多い。なお、平面部分の道路の基礎は、難波宮跡中心部の遺構を破壊しないよう地下に杭を打ち込まないような特殊な構造となっており、また橋脚の間隔も一本当たりにかかる重量を分散させる目的も兼ねて通常30メートル開けるところを、この区間は10メートル間隔で橋脚を設置している[10]

1985年に大阪市が、北接する大阪城公園と難波宮跡公園を一体化した「歴史公園構想」を発表。その一環として、馬場町にあったNHK大阪放送会館が上町筋を挟んだ大手前4丁目の大阪市中央体育館跡地に移転するなどしたが、この2つの公園の一体化構想は進展していない。

2004年平成16年)から、四天王寺ワッソ(11月開催)のメイン会場となっている。

2006年(平成18年)には、万葉仮名で書かれたものとしては、最古とされる7世紀中ごろの木簡が出土している。木簡は長さ18.5センチ、幅2.7センチで、片面に墨で「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」と書かれており、「はるくさ(春草)のはじめのとし」と読むとみられている。一緒に出土した土器や土層の状況から前期・難波宮の完成前後のものと考えられ、万葉仮名は天武・持統朝(672年-697年)に成立したと考える説に再考を促す発見であった。

平成28年、後期難波宮の朝堂院の西側から4棟の建物の基礎跡が発掘された[11][12]

文化財

国の史跡

  • 難波宮跡 附 法円坂遺跡
    • 1964年(昭和39年)5月2日指定。
    • 1976年(昭和51年)3月31日、1986年(昭和61年)8月4日に史跡範囲の追加指定。
    • 2001年(平成13年)1月29日に法円坂遺跡の範囲の追加指定と指定名称を「難波宮跡 附 法円坂遺跡」に変更。
    • 2005年(平成17年)3月2日、2007年(平成19年)7月26日、2013年(平成25年)3月27日に史跡範囲の追加指定[13]

大阪府指定文化財

  • 有形文化財
    • 難波宮跡出土木簡 附 土器・土製品 33点(考古資料) - 公益財団法人大阪府文化財センター中部調査事務所保管。2012年(平成24年)3月15日指定[14]
      • 附指定:土師器 23点
      • 附指定:須恵器 48点
      • 附指定:土馬 1点

大阪市指定文化財

  • 有形文化財
    • 難波宮跡出土蓮華文軒丸瓦・重圏文軒丸瓦 2点(考古資料) - 2003年12月19日指定[15]
    • 難波宮跡出土鴟尾 1点(考古資料) - 2003年12月19日指定[15]
    • 難波宮跡出土万葉仮名文木簡 1点(附 土器資料24点)(考古資料) - 2011年4月1日指定[15]

脚注

注釈

  1. ^ 古代の寺院や宮殿の大棟の両端に置かれた鴟尾が飾られていた。復元すると高さ1.5メートルほど。文様は珠文や葡萄唐草文。

出典

  1. ^ a b 岡田由佳子 (2015年12月8日). “54年ぶり、難波宮の屋根瓦が初公開”. Lmaga.jp (京阪神エルマガジン社). https://www.lmaga.jp/news/2015/12/150/ 2022年8月28日閲覧。  {{cite news}}: |date=の日付が不正です。 (説明)
  2. ^ 『大阪の史跡を訪ねて(1)原始・古代篇』(ナンバー出版)[要ページ番号]
  3. ^ “後期難波宮:独特文様の屋根瓦54年ぶり再発掘 6日公開”. 毎日新聞. (2015年12月1日). オリジナルの2015年12月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151222123955/http://mainichi.jp/articles/20151202/k00/00m/040/136000c/ 2022年8月28日閲覧。  {{cite news}}: |date=の日付が不正です。 (説明)
  4. ^ a b c d “後期難波宮の屋根瓦を一般公開=54年ぶりに再発掘-大阪市〔地域〕”. 時事通信. (2015年12月9日). オリジナルの2015年12月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151212075600/http://www.jiji.com/jc/zc?k=201512/2015120900172&g=soc 2022年8月28日閲覧。  {{cite news}}: |date=の日付が不正です。 (説明)
  5. ^ 李陽浩「前期・後期難波宮の造営期間と造営日数についての一考察」『共同研究成果報告書』、大阪歴史博物館、34頁、2013年http://www.mus-his.city.osaka.jp/education/publication/kyodokenkyu/pdf/kyodo-7/kyodo-7_pp27-44.pdf2022年8月28日閲覧 
  6. ^ 李陽浩「前期難波宮の内裏規模をめぐる一考察」『建築史学』第65巻、建築史学会、2015年、61-78頁、doi:10.24574/jsahj.65.0_61ISSN 02892839 
  7. ^ 木原克司「我が国における条坊制都市の成立をめぐって」『人文地理』第39巻第5号、人文地理学会、1987年、424-444頁、doi:10.4200/jjhg1948.39.424ISSN 00187216 
  8. ^ 中野渡俊治「天平十六年難波宮皇都宣言をめぐる憶説」(続日本紀研究会編『続日本紀と古代社会』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1271-3[要ページ番号]
  9. ^ 今井邦彦 (2015年12月2日). “難波宮の瓦、半世紀ぶりに再発掘 6日に一般公開へ”. 朝日新聞. オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160304110842/http://www.asahi.com/articles/ASHCZ5G74HCZPLZU008.html 2022年8月28日閲覧。  {{cite news}}: |date=|archive-date=の日付が不正です。 (説明)
  10. ^ a b 阪神高速の大規模更新 13号東大阪線 法円坂付近”. 阪神高速道路. 2019年6月29日閲覧。
  11. ^ “難波宮に奈良期の役所…建物跡4棟、初出土”. 読売新聞. (2016年12月1日). オリジナルの2016年12月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161202143618/http://www.yomiuri.co.jp/culture/20161201-OYT1T50033.html 20228-28閲覧。 エラー: 閲覧日が正しく記入されていません。  {{cite news}}: |access-date=|date=|archive-date=の日付が不正です。 (説明)
  12. ^ 難波宮から役所跡みつかる[リンク切れ]
  13. ^ 難波宮跡 附 法円坂遺跡”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2022年8月28日閲覧。
  14. ^ 大阪府教育委員会告示第2号” (PDF). 国立国会図書館デジタルコレクション. 大阪府公報第3580号. 国立国会図書館. p. 1 (2012年3月15日). 2022年8月28日閲覧。
  15. ^ a b c 大阪市” (PDF). 大阪府内指定等文化財一覧表. 大阪府. p. 11. 2022年8月28日閲覧。

参考文献

  • 『新修 大阪市市史第1巻』 大阪市史編纂委員会、1998年。

関連文献

関連項目

外部リンク


難波大隅宮
日本の首都
430年 - 456年

泊瀬朝倉宮

飛鳥宮 (豊浦宮 小墾田宮 岡本宮 板蓋宮) 等
日本の首都
(難波長柄豊埼宮)

645年 - 655年

飛鳥宮 (板蓋宮 川原宮 後岡本宮) 等

座標: 北緯34度40分50.347秒 東経135度31分23.801秒 / 北緯34.68065194度 東経135.52327806度 / 34.68065194; 135.52327806 (難波宮)



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「難波宮跡」の関連用語

難波宮跡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



難波宮跡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの難波宮 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS