難波長柄豊碕宮の朝庭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 08:00 UTC 版)
およその規模のわかるもので最古の朝庭は、難波宮跡のうちの前期難波宮跡である。難波宮跡は、南から北方にむけて半島状に突出した上町台地の北端付近、現大坂城のすぐ南に位置しており、1954年より2009年現在まで継続して発掘調査がおこなわれている。調査の結果、前期難波宮跡は難波長柄豊碕宮の遺跡であることが確実となった。 『日本書紀』によれば、新都(難波長柄豊碕宮)の造営は中大兄皇子・孝徳天皇らによって650年(白雉元年)にはじめられた。王宮全体の規模は不明であるが、少なくとも東西7堂ずつで計14堂以上の朝堂(庁)があったことを確認した。藤原宮・平城宮でさえ12堂であることを考えると、それをうわまわる建物数であり、発見当時(1989年)は「予想もしなかった新事実」とよばれ、植本久はさらに本来は16堂あったと推定している。ただし、掘立柱建物より成る朝堂はその数の多さに比較して各殿舎は小規模であり、むしろ屋外空間であった中央の「朝庭」の広大さが際だっていた。その規模は東西233.4メートル、南北263.2メートルにおよんでいる。 この「朝庭」の広さについて、吉田孝や熊谷公男は文書による行政システムの整備された8世紀段階でも重要な儀式や政務は、大極殿とその前庭にあたる「朝庭」でおこなわれており、そこにおける天皇の声による口頭伝達が重要であったことを指摘し、文書行政システムの行われない大化・白雉にあっては、なおさら「朝庭」の広さこそが重要であったと論じている。さらに吉田は、すべての有位者が毎日朝参するという当時の政務のあり方との関係を指摘するとともに、この時期、評造の任命が全国的におこなわれ、地方豪族が「朝庭」に頻繁に参集したためと説明しており、地方に対する支配体制の刷新と強化に乗り出した改新政権にとっては、壮大な宮殿を見せることによって地方の豪族を心理的に圧倒することが必要だったのではないかと指摘している。 前期難波宮(難波長柄豊碕宮)の画期性について、早川庄八は、王宮の発展系列のうえで「突出」していると説いた。これについて、林部均は、朝堂・朝庭がきわめて計画的、なおかつ左右対称に配置された点に画期性を認め、その配置は従来の飛鳥(豊浦宮、小墾田宮、前岡本宮、再び小墾田宮、板蓋宮)では宮周辺に分散していた官衙を集約して政務・儀式・饗宴の空間が統合された結果であると評し、さらにその巨大化の背景には倭王権の外交の窓口としての難波の特殊性を指摘している。 いっぽう、岸俊男は前期難波宮跡の内裏の平面形と中国の南北朝時代の大極殿との共通性を指摘し、それを受けて鬼頭清明は、中国南北朝期の大極殿が皇帝の私的な居住空間としての側面と公的な儀礼空間としての側面を兼ね備えていた点を明らかにし、前期難波宮の内裏でも同様の性格が考えられるとした。朝庭も含めた前期難波宮の巨大化の背景としては、従来の氏姓制的な官司制の枠組みからの脱却、つまり、岸や鬼頭が指摘するような、中国南北朝期の宮廷の影響を受けた、理念的かつ官僚制的な新しい要素を考慮すべきとする見解がある。上述の「難波朝庭の立礼」が定められたのも、この時期であった。 いずれにせよ、乙巳の変後の改新政府が、「朝庭」の場を、「天つ神」の世界に通じる神聖で厳粛な場とみなし、「一君万民の思想」を鼓吹して浸透させていく空間とみなしていたとする見解が少なくない。650年(大化6年)に吉祥のしるしとされた白いキジが現れたときに、孝徳天皇は「公卿・百官人等」を朝庭に集め、大化から白雉への改元の詔を出すが、その際、「天の委(ゆだ)ね付(さず)くるに由(よ)りて」の言を発している。
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