難波長柄豊碕宮の朝堂
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およその規模のわかるもので最古の朝堂院は、難波宮跡のうちの前期難波宮跡(大阪市中央区)である。難波宮跡は、南から北方にむけて半島状に突出した上町台地の北端付近、現大坂城のすぐ南に位置しており、1953年に発見され、1954年より2009年現在まで継続して発掘調査がおこなわれている。調査の結果、前期難波宮跡は難波長柄豊碕宮の遺跡であることが確実となった。 645年の乙巳の変後、孝徳天皇や中大兄皇子らは飛鳥など大和各地の外港にあたる難波に遷都し、小郡宮や大郡宮などを転々としながら「大化の改新」とよばれる改革政治をおこなった。小郡宮・大郡宮は、ともにそれまで朝鮮半島諸国や中国の使節を接待した外交施設であったが、その館舎を改造して行宮としたものであった。なお、吉村武彦は、小郡宮・大郡宮いずれも上町台地に立地していたものであろうと推定している。 『日本書紀』によれば、新都(難波長柄豊碕宮)の造営は中大兄皇子らによって650年(白雉元年)にはじめられた。翌年遷宮をおこない、652年(白雉3年)にはすべて落成した。王宮全体の規模は不明であるが、東西233.4メートル、南北263.2メートルの空間に、少なくとも東西7堂ずつで計14堂の朝堂(庁)があったことを確認した。藤原宮・平城宮でさえ12堂であることを考えると、それをうわまわる建物数であった。発見当時(1989年)、このことは「予想もしなかった新事実」とよばれ、また、内裏南門は7×2間(32.7×12.3メートル)で平城宮の朱雀門をしのぎ、内裏南門の東西入口にある八角殿院は他に例をみない遺構である。ただし、朝堂はその数の多さに比較して、各殿舎は、 西一堂 … 桁行6間(約18メートル)、梁行3間(約7メートル)、庇なし、切妻造 西二堂~西四堂 … 桁行12間(約35メートル)、梁行2間(約6メートル)、庇なし、切妻造 と小規模であり、中央の「朝庭」の広大さがむしろ際だっていた。また、朝堂をふくむすべての建物が掘立柱建物で、瓦は用いられていない。 この「朝庭」の広さについて、吉田孝は文書による行政システムの整備された8世紀段階でも重要な儀式や政務は、大極殿とその前庭にあたる「朝庭」でおこなわれており、そこにおける天皇の声による口頭伝達が重要であったことを指摘したうえで、文書行政システムの行われない大化・白雉にあっては、なおさら「朝庭」の広さこそが重要であったと論じ、加えてこの時期、評造の任命が全国的におこなわれ、地方豪族が「朝庭」に頻繁に参集したためと説明している。また、乙巳の変後の改新政府が、「朝庭」の場を、「天つ神」の世界に通じる神聖で厳粛な場とみなし、「一君万民の思想」を鼓吹して浸透させていく空間とみなしていたとする見解が少なくない。 なお、前期難波宮跡には、火事による被災の痕跡があり、これは『日本書紀』686年(朱鳥元年)正月条の難波宮が全焼したという記事に、年代的に一致する。
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