難波百済寺との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 15:06 UTC 版)
「百済寺 (枚方市)」の記事における「難波百済寺との関係」の解説
百済王氏が河内国交野の地に移り住む以前、摂津国難波京にも「百済寺」「百済尼寺」があったと考えられている。『日本霊異記』第14話に「難波百済寺」とあり、難波の「百済寺」は斉明朝(7世紀中葉)から10世紀までは存在していたと考えられている。 「百済寺」は現在の大阪市天王寺区堂ヶ芝廃寺(現豊川稲荷大阪別院敷地内)、「百済尼寺」は同区の細工谷遺跡に比定されている。1997年、細工谷遺跡からは「百済尼」「百尼寺」の墨書のある奈良時代の土器が出土したことから、「百済尼寺」の存在が判明した。両遺跡から出土した瓦の形式にも共通性が見られる。「百済尼寺」で和同開珎の枝銭が見つかっている。細工谷遺跡からも銭貨鋳造を伺わせる遺物が出土している。 摂津国に「百済郡」が存在したことがあるが、この付近がその西端と考えられている。難波には百済から渡来してきた人々が多く住んでいた。百済王氏はもと摂津国百済郡を拠点としていたが、百済王敬福が749年、陸奥国(現在の宮城県遠田郡涌谷町)で発見した黄金を平城京の聖武天皇へ献上することによって、従五位上陸奥守から従三位河内守へ異例の昇進を果たし、それを機会に河内国交野の地を次の拠点にしたものと見られる。
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