難渋したSM分離および相互直通運転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 09:15 UTC 版)
「横須賀・総武快速線」の記事における「難渋したSM分離および相互直通運転」の解説
鶴見駅 - 東戸塚駅間の貨物新線建設に伴う反対運動の詳細については「東海道貨物線#貨物新線建設の反対運動」を参照 1967年(昭和42年)時点で国鉄は、東京駅 - 津田沼駅間複々線化および総武線側の東京駅地下ホーム使用開始を1971年(昭和46年)4月に、東京駅 - 品川駅間の地下線増設および同駅地下ホーム全面使用開始を1972年(昭和47年)10月の予定であった。しかし、地下トンネルの地質の問題から工事が難航、当初の予定を繰り下げ地下ホームの使用開始を総武快速線側は1972年(昭和47年)7月に、東海道本線(横須賀線)側は1974年(昭和49年)4月から1975年(昭和50年)度までの予定にした。総武快速線は予定通り1972年(昭和47年)7月15日に開業したが、横須賀線は前述の地下別線は完成していたものの、その先の鶴見駅 - 東戸塚駅間の貨物新線建設に対する用地買収などに難渋したため、湘南電車との分離運転および相互直通運転が計画通り進まなかった。 その経緯は、1966年(昭和41年)4月に東海道本線東京駅 - 小田原駅間線路増設工事を国鉄理事会で決定、工事実施計画の認可が同年5月に下りたことで、国鉄は用地買収するため、貨物新線建設の計画を発表した。ところが、突然発表された計画に恩恵を直接受けない沿線住民によって貨物線建設反対運動が起こり、同年9月と1967年(昭和42年)5月に相次いで「貨物線反対同盟」を結成、6月には各地の反対同盟が連合した「反対同盟連合協議会」を結成して、反対運動を展開した。しかし、国鉄との交渉を続けていた1969年(昭和44年)6月に、絶対反対から条件闘争へと転換する地区が反対同盟連合から脱退、同年横浜市は貨物線建設は通勤輸送緩和のためやむを得ないとして、国鉄に十分な騒音・振動対策を求めたが、納得がいかない一部住民は強硬に反対した。1970年(昭和45年)3月6日に横浜市議会が反対請願を不採用とする決議を採択、これにより住民側の反対運動の大勢は条件闘争へと向かう。国鉄は、1970年(昭和45年)2月17日に土地収用法による事業認定を申請、それに対し反対同盟連合は阻止闘争などを続けたが、1972年(昭和47年)3月になると建設反対強硬派の一部住民が反対同盟連合から脱退、条件派の協議会を結成、事実上反対同盟連合は分裂した。これにより、同年には国鉄と条件付き賛成派が建設に合意、ほぼ全線で着工されたが、最後まで強硬に反対していた横浜線との交差付近の500mの区間の住民に対し、1974年(昭和49年)7月17日に建設大臣(当時)による土地収用法に基づく事業認定の公示があり、絶対反対の地区に対しては土地収用法が適用され、1978年(昭和53年)6月3日には神奈川県収用委員会は収用の裁決を下し、その地区を強制収用して、1976年(昭和51年)3月までにこの区間を除いた建設工事が終了していた新貨物線を突貫工事で完成させた。このような反対運動により新貨物線の開通が遅れたため、完成していた東京駅 - 品川駅間地下別線については、前述の混雑が問題となり、1976年(昭和51年)10月1日に総武快速線延長という形で開業させた。また、1977年(昭和52年)9月には、国鉄が地元から長年要望されていた保土ケ谷駅 - 戸塚駅間に新駅(東戸塚駅)の設置を決定した。 こうした紆余曲折を経てようやく、1979年(昭和54年)10月1日に新貨物線は開業、東京駅 - 小田原駅間は上図のほか線路増による完全客貨分離が完成、そのうち東京駅 - 大船駅間は1980年(昭和55年)10月1日から、横須賀線電車と湘南電車との別線化による、系統別の分離運転を開始した。分離された区間で、東京 - 品川駅間は、1976年(昭和51年)10月1日に開業した総武快速線の地下区間に接続させた形となり、品川駅 - 鶴見駅間は、1929年(昭和4年)8月21日に開業した貨物専用線の通称品鶴線を転用、鶴見駅 - 大船駅間は、1928年(昭和3年)3月20日までに平塚まで開業していた貨物線の転用、よって同区間の横須賀線の走行線路は、地下区間を除き、それぞれ既存貨物線の転用によるものである。
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