史跡難波宮跡とは? わかりやすく解説

史跡難波宮跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 16:50 UTC 版)

難波宮」の記事における「史跡難波宮跡」の解説

現在、難波宮跡地一部難波宮跡公園として整備されている。 難波宮遺跡現在の馬場町法円坂大手前4丁目付辺に及んでおり、大阪歴史博物館NHK大阪放送会館複合施設がある一角難波宮の跡である。大阪歴史博物館地下1階では、地下遺跡様子見学することができる。同博物館前にある茅葺き高床倉庫は、法円坂遺跡見つかった5世紀古墳時代)の巨大高床倉庫群のうち1棟を復元したのである難波宮以前から重要な交通拠点となっていた難波津遺構である。 難波宮跡公園の場所は、明治4年1871年以降兵部省(のち陸軍省)の管轄地となり、1945年昭和20年)の敗戦時には歩兵第8連隊置かれていた。占領軍接収解除後すぐに鴟尾発見されたこともあり、開発の手から免れ広大な敷地確保が可能となった難波宮跡公園北側東西に通る府道高速大阪東大阪線阪神高速道路東大阪線)は、ほぼ全線高架構造にもかかわらず難波宮跡付近部分だけ平面となっている。これは、建設先立つ事前協議結果難波宮跡遺構保存難波宮跡公園から大坂城跡への景観確保するために「平面案」が採用された為である。しかし、この突如として現れる急な勾配区間のために、事故渋滞の原因となることも多い。なお、平面部分道路基礎は、難波宮跡中心部遺構破壊しないよう地下打ち込まないような特殊な構造となっており、また橋脚間隔一本当たりにかかる重量分散させる目的兼ねて通常30メートル開けところを、この区間10メートル間隔で橋脚設置している。 1985年大阪市が、北接す大阪城公園難波宮跡公園一体化した歴史公園構想」を発表。その一環として馬場町にあったNHK大阪放送会館上町筋挟んだ大手前4丁目の大阪市中央体育館跡地移転するどしたが、この2つ公園一体化構想進展していない。 2004年平成16年)から、四天王寺ワッソ11月開催)のメイン会場となっている。 2006年平成18年)には、万葉仮名書かれたものとしては、最古とされる7世紀中ごろ木簡出土している。木簡長さ18.5センチ、幅2.7センチで、片面に墨で「皮留久佐乃皮斯米之刀斯」と書かれており、「はるくさ春草)のはじめのとし」と読むとみられている。一緒に出土した土器地層状況から前期・難波宮完成前後のものと考えられ万葉仮名天武持統朝(672年-697年)に成立した考える説に再考促す発見であった平成28年後期難波宮の朝堂院の西側から4棟建物基礎跡が発掘された。 大極殿正殿大極殿後殿朝堂院東堂朝堂院西堂

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