前期・難波宮とは? わかりやすく解説

前期難波宮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 16:50 UTC 版)

難波宮」の記事における「前期難波宮」の解説

難波長柄豊碕宮」も参照 乙巳の変大化元年645年〉)ののち、孝徳天皇難波難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿白雉3年652年)に完成した元号始まりである大化の改新よばれる革新政治はこの宮でおこなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り草葺屋根であった[要出典]。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されている。 孝徳天皇残し飛鳥現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊皇極天皇)は、天皇没した後、斉明天皇元年1月3日655年2月14日)に飛鳥板蓋宮で再び即位重祚)し斉明天皇となった『日本書紀』巻第廿六による)。 天武天皇12年683年)には天武天皇複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、朱鳥元年686年正月難波宮室全焼してしまった。 建築物概要 回廊と門で守られ北側区画東西185メートル南北200メートル上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級東西36メール南北19メートル前殿ひとまわり小さな後殿廊下結ばれている。前殿正殿である。内裏南門左右に八角形楼閣状の建物見つかった。これは、難波宮荘厳さを示す建物である。 宮殿中軸線上三つの門が発見されている。北から内裏南門次に朝堂院南門宮城南面中央の門(朱雀門)。内裏南門東西32.7メートル南北12.2メートル日本歴代宮殿中でも最大級規模である。この門は、木製基壇の上立っている。木製基壇の上に立つ建物は、内裏前殿八角殿等の中枢部の建物限られている。朝堂院南門南面中央門(朱雀門)の平面規模東西が23.5メートル南北は8.8メートル直径6080センチという太い使われていた。 天皇住まい内裏)と、政治儀式の場(朝堂院)をはっきりと分離した構造は、前期難波宮が最初であり、後の宮(藤原宮平城宮平安宮など)にも採用された。朝堂院広さ南北262.8メートル東西233.6メートルである。その中に東西に7棟ずつ、左右対称に14朝堂並んでいる。北から東西とも第一堂、第二堂と順に名付ける第一堂は南北裄)16.1メートル東西梁間)7.9メートルで、第二堂は南北20.5メートル東西7.0メートルであり、木製基壇の上に立つ。第三四・五堂と第七堂(南北に並ぶ東西棟二棟の内の南側)は裄35.0メートル梁間5.8メートルである。このように朝堂院規模が違うのは、着座する人たちの位によって朝堂格式に差があったことが分かる14朝堂が見つかっている。後の宮では12である。 これらの内裏朝堂院外側(まわり)に役所官衙)が存在した。 なお条坊制存否については議論があるが、採用されていれば日本最古のものとなる。

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