所在地と遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 13:17 UTC 版)
日本書紀や『懐風藻』『藤氏家伝』などには「内裏」「宮門」「大殿」「仏殿」「漏剋台」「内裏西殿」「大蔵省」「浜楼」など宮の構造をある程度推定し得る施設名が見えているが、所在地については何ら明示されていない。ただ、『今昔物語集』『元亨釈書』や園城寺の寺誌には、大津宮西北の滋賀山中金泉谷(現在の大形谷)に崇福寺が建立されたとの記載があり、この位置関係を唯一の根拠として、近世以来、錦織(御所ノ内)説、南滋賀説、滋賀里説、穴太説、粟津説などが唱えられた。 1974年(昭和49年)、錦織一丁目の住宅地の一画で発掘調査が行われ、初めて内裏南門跡と考えられる13基の柱穴が発見された。柱穴からは670年頃の時期を示す須恵器・土師器片が出土したため、錦織遺跡が大津宮の遺構と断定されるに至った。住宅街のため早急な調査範囲の拡大は困難だったが、住宅の新築や増改築などに伴って発掘が積み重ねられた結果、南門から東西に伸びる回廊(複廊)を境に、北側には内裏正殿とそれを囲む板塀、南側には朝堂院と想定される空間が広がっていることなどが判明した。遺構の復原に携わった林博通によれば、大津宮は構造上、前期難波宮(孝徳天皇の難波長柄豊碕宮)との類似点が多く見出され、前期難波宮をやや変形・縮小して造営されたものと評価されている。錦織地区は西側の丘陵が湖岸付近まで迫り平地が極端に狭いため、遺構の立地可能な範囲は最大限でも南北700m、東西400m程度とみられる。1979年(昭和54年)に近江大津宮錦織遺跡として国の史跡に指定され、一部は公園化するなど保存が図られている。
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