彷徨五年の間に首都とされた宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:44 UTC 版)
「彷徨五年」の記事における「彷徨五年の間に首都とされた宮」の解説
奈良時代以前には首都以外に副都が運営されることがあった。当時の先進国であった唐は首都として長安と洛陽の2箇所の都城を設けており、天武天皇はこれに倣って孝徳天皇以来の難波宮(前期難波宮)を当時の首都飛鳥宮に対する副都として天武13年(683年)に再整備したが、朱鳥元年(686年)の大火で全焼した。またこれらほど大規模でない離宮もいくつか設けられており、恭仁宮のすぐ南には聖武の2代前の元明天皇の時代から歴史に登場し、彷徨五年の直前に聖武が複数回訪れた甕原(みかのはら)離宮があった。なお唐は723年に長安城・洛陽城・太原城の三都制を導入したが、この情報は天平7年(735年)に帰国した遣唐使によって、当時の最新知識として日本にもたらされている。
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