上町台地開発と大阪の歴史
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「上町台地」の記事における「上町台地開発と大阪の歴史」の解説
古くから大阪湾に突き出した高台であったこの土地の先端には生國魂神社が存在しており、西日本各地や中国・朝鮮との交易が盛んになるとともに次第に重要となる。縄文時代中期に既に人が集住していた事が森ノ宮付近の遺跡から明らかになっている。昭和62年(1987年)夏、上町台地の北端付近で古墳時代の5世紀後半と推定される高床式倉庫群が発掘された。発掘された倉庫群は16棟で、東西方向に2列に並んでいる。倉庫のどれも同じ構造で、平面規模も一辺10m×9m前後と同じで、真北向きに配置されており、建物の間隔も同じである。16棟の合計床面積が約1470平方メートルもあり、租税としての米を籾で入れるのか稲束で入れるのかの違いがあるが相当大きな収容量であったと推測される。5世紀に突然、上町台地の北端に大規模倉庫群が立てられたのか疑問が残る。この遺構は「法円坂遺跡」として国の史跡に指定されている(史跡「難波宮跡」の「附」(つけたり)としての指定)。 神武天皇は即位前、難波埼(なにわさき)に生国魂神社を創建。弥生時代後期〜古墳時代 、応神天皇の行宮として難波大隅宮(なにわのおおすみのみや)、仁徳天皇の難波高津宮(なにわのたかつのみや)、欽明天皇の難波祝津宮(なにわのはふりつのみや)が営まれ当時における国内流通の中心であり住吉津や難波津が開港される。また、飛鳥時代には孝徳天皇や聖武天皇の難波宮(なにわのみや)などが営まれた。『日本書紀』では593年、聖徳太子が日本最古の官寺四天王寺を難波(なにわ)の荒陵(あらはか)に建立するとある。以後、四天王寺の西大門から難波津に沈む夕日を望む西方浄土信仰と重なり、仏教信仰、とりわけ浄土信仰の隆盛とともにその中心地の一つとして栄えていくこととなった。四天王寺や住吉大社、熊野に詣でる人たちは上町台地の西にあった渡辺津(今の天満橋周辺)で船を下り、そこが熊野街道の基点であった。四天王寺から熊野街道、庚申街道などが走り多くの人たちが救いを求めてこの地を往来した。平安から鎌倉、室町にかけてはこの渡辺津と四天王寺周辺が大きな商業都市として栄えている。渡辺津は、嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)を祖とする渡辺氏をはじめとする武士団の生まれた場所でもあり、彼らの水軍の拠点として瀬戸内を束ねる場所でもあった。 ちなみに大坂とは四天王寺の西大門から難波津へ下る坂の名称で、後に町全体を指すようになったもの。 645年、上町台地に首都の難波宮が造営され日本という国号と共に元号の使用が始まった。また、天皇の住まい、政治、儀式の場をはっきりした構造は難波宮が最初であり後の宮にも採用された。難波大道も整備されその後も首都や副都としての難波京が置かれた。後年、ほぼ同じ場所である上町台地北端に、蓮如により石山本願寺が開かれ商工業が発展し、全国の浄土真宗の総本山となる。その後、石山本願寺は織田信長による10年にもわたる激しい攻撃の末、ついに陥落した。信長はこの地に壮大な城を築き、天下統一の拠点にしようと計画していたが、本能寺の変により信長は死去した。そして豊臣秀吉が大坂城を築いたが、三方を河川・湿地に囲まれた大坂城にあって、南はなだらかな上町台地に開かれており多数の軍勢に圧迫される可能性のある城郭防衛上の弱点となっており、秀吉は後年、総構えとしてこの上町台地に堀を掘削する工事を行っている。また、徳川家康による大坂城攻め(大坂冬の陣)の際、豊臣方の武将・真田信繁が総構えから大きく突出した丸馬出「真田丸」を築城して弱点を補い、攻める徳川勢に多大な損害を与えた。 上町台地は宗教上・軍事上・交易上重要な場所で、大阪の基礎となる場所であったといえる。
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