上町台地の成り立ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:16 UTC 版)
縄文海進期の上町台地は河内湾に突き出した半島状の台地であったと想定されている。その東側は河内湾とされ、河内湾が淡水化されていく河内湖の形成過程では天満橋の台地北端からさらに北へ砂州がつながり、半島状の上町台地は完全に両端が陸域化された。大阪湾の北岸は千里丘陵のすぐ下、吹田市の豊津や高浜といった地名がある辺りにあり、そこへ上町台地からの砂州が大阪市の東三国か吹田市の江坂辺りまで延び、淀川や大和川の流れ込む河内湾と大阪湾は垂水(現在の吹田市垂水付近)というわずかな幅の水路でつながっていた。そのため、時代が下がるにつれて河内湾は河川水による淡水化が進み河内湖となる。仁徳天皇は河内湖と大阪湾をつなぎ、河から海への水運や、河内湖の排水をスムーズにするため、現在の天満橋の辺りで砂州を掘って河内湖と大阪湾を直結する難波の堀江という運河を作ったといわれている。 なお、途中で台地が途切れているのは、掘割工事や河川の付替えが行われたためとされている。江戸時代の大和川付け替えが典型的な例であるが、それ以前にも上町台地を開削して河内の水を大阪湾に流そうという試みはあった。難波の堀江のほかにも、延暦7年(788年)に和気清麻呂が大和川の水を大阪湾に流すため四天王寺の南を開削しようとしたが失敗したとされている。天王寺公園北側の茶臼山にある「河底池」や、付近の谷町筋の起伏、堀越町という町名などはこの跡地と思われる。
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