鋸喩経
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鋸喩経[1](こゆきょう、巴: Kakacūpama-sutta, カカチューパマ・スッタ)とは、パーリ仏典経蔵中部に収録されている第21経。
- ^ 『南伝大蔵経』、『原始仏典』中村、『パーリ仏典』片山
- ^ a b c d e アルボムッレ・スマナサーラ『怒りの無条件降伏 中部経典「ノコギリのたとえ」を読む』日本テーラワーダ仏教協会、2004年。ISBN 978-4902092066 。
- ^ 矢辰夫 2004, 前書きP304.
- ^ 手足を切り取られるというのは尋常ではないと思われるが、仏典には、獅子に食べられている最中に悟った話や、盗賊であったアングリマーラ長老の話もある。こうした喩は、仏教が始まったばかりの時には、身近なものであったのかもしれないようだ。
- ^ 出家者はもとより、在家の修行者であっても、如来に対する信仰や尊敬をわずかでも持つ者は、すべて天に至るとされている。手足を切り取られても、怒りや恨みを抱かないためには、肉体を自分と見る束縛を捨てることを学び、如来に対する信仰や尊敬が充満する天にて、修行の継続をすることを念ずることが肝要なこととなっていたのではないかと思われる。 (矢辰夫 2004, p. 342)
- ^ そのことは、四無量心における慈悲のこころとは少し違った点が見受けられる。四無量心はどちらかというと、観念的・瞑想的な実践の心のあり方を説いているといえる。しかし、一切の世界というのは、三千世界を意味しているようでもある。そこを無限の慈悲の想いで満たすという実践をしている存在は、「如来」を指している。そのため、如来に対する信仰や尊敬を持ち、三つの束縛を捨てることが、一切の世界を無限の慈悲の想いで満たすことと密接につながっていると見ることができる。そしてこの場合の如来とは、ゴータマ・ブッダを指している。(矢辰夫 2004, p. 317)
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