進歩主義の時代: 1890年-1920年
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「アメリカ合衆国の経済史」の記事における「進歩主義の時代: 1890年-1920年」の解説
アメリカ合衆国史の初期段階では、大半の政治指導者は連邦政府が輸送分野を除いて民間部門に深く関わるのを避けてきた。概して自由放任主義の概念を受け入れ、法と秩序を維持すること以外、政府が経済に干渉することに反対することを原理とした。この姿勢は19世紀後半に変わり始め、小企業、農園および労働運動が彼等のために政府による干渉を求めた。 世紀の変わり目までに中産階級が成長し、事業特権階級にもまた中西部や西部における農夫や労働者のやや急進的政治運動に対しても疑念を抱くようになった。進歩主義と呼ばれるこれらの人々は商習慣に対する政府の規制に賛成し、その心の中で競争と自由な創業を確保しようとした。連邦議会は1887年に鉄道を規制する法(州間通商法)を法制化し、また1890年には大会社が単一産業を支配することを妨げる法(シャーマン反トラスト法)を制定した。前任のマッキンリーが暗殺されて昇任した共和党のセオドア・ルーズベルト大統領は、多国籍企業の利権を中南米に対する棍棒外交によって拡充しようとした。1907年恐慌の前後数年間にアームストロング調査委員会が多国籍企業の国益無視を厳しく批判した。 1900年から1920年の間、法は厳格に執行されたわけではなかった。今日あるアメリカ合衆国の規制機関の多くはこの時代に創設された。例えば州際通商委員会や連邦取引委員会だった。マクレイカー(醜聞を暴く人)は読者に事業の規制を要求させるジャーナリストだった。アプトン・シンクレアの『ザ・ジャングル』(1906年)は1870年代に発展した巨大複合食肉加工場であるシカゴのユニオン・ストック・ヤーズの恐ろしさをアメリカ人に知らせた。連邦政府はシンクレアの本に反応して、新しい規制機関であるアメリカ食品医薬品局を創設し、純正食品・薬物法と牛肉検査法を成立させた。イーダ・M・ターベルはスタンダード・オイルの独占に反対する一連の記事を書いた。このシリーズは独占を崩壊させる道筋を開いた。 1912年、民主党のウッドロウ・ウィルソンが大統領に選ばれ議会も民主党が支配すると、一連の進歩主義施策を採っていった。1913年、アメリカ合衆国憲法修正第16条が批准され、合衆国で所得税が制度化された。ウィルソンは長引いていた関税や反トラストの議論を解決させ、また連邦準備制度を創設した。連邦準備制度はジョン・モルガンなどのマーチャント・バンクがその設立を主導し、もって貿易金融を特権化したのであるが、ニューヨークの貿易環境は整っていたものとみられる。たとえば1908年、ベアリングス銀行のニューヨーク事業はキダー・ピーボディ(Kidder, Peabody & Co.)・ボストンの支店となった。 1913年、ヘンリー・フォードは流れ作業による組立工程を採用し、それぞれの労働者が自動車の生産において単純労働をすれば良いようにした。フォードは進歩主義の時代の発展から糸口を掴み、大変寛容な賃金、1日5ドル、を労働者に提供し、平均的な労働者が自社製品を買えなければ大量生産企業は生き残れないと主張した。しかし、賃金上昇は女性にまでは拡がらず、フォードは会社の社会科学部を拡張して労働者を観測させ、労働者が「悪質で安物のスリル」にその新しい報奨金を消費しないように仕向けた。1910年に1台950ドルだった自動車は1924年には290ドルになった。1920年代には年間125万台が量産された。 第一次世界大戦は連邦準備制度による銀行引受手形独占の問題を相対的に小さくし、アメリカ経済の構造を大きく変えた。 戦前のアメリカ経済はイギリス、ドイツを抜き世界一位の経済規模となっていたものの、内需依存であり、貿易依存度が低く純債務国であった。第一次世界大戦により、ヨーロッパ諸国が軍需品生産拡大に傾斜せざるを得ない状況となり、アメリカは鉄鋼や小麦の生産量・輸出量をともに拡大させていった。ヨーロッパ諸国は戦争継続のために、アメリカに投下していた資本を引き揚げ、対米債権を放棄・米国からの借款に依存せざるを得なくなり、大戦後の1919年にはアメリカは132.3億ドルの対外債権を保有することとなり、結果として、貿易黒字・債権国(資本収支赤字)の国家へと変貌していった。このことは、後に第一次世界大戦の賠償金要求に伴うルール出兵を誘発することとなり、ドーズ案、ヤング案で賠償金の減額がなされていくこととなった。 第一次世界大戦継続のために、国内経済の構造に変化が見られた。メリルリンチの前身企業(E. A. Pierce & Co.)で金融キャリアを積んだバーナード・バルークを長官として戦時産業局(en)が設置された。生産拡大、生産効率向上、労使紛争調停のために、戦時労働局(en)が設置され、間接的に労働者の組合加入を支援する一方、AFLも戦争に協力の姿勢を見せ、労使間の歩み寄りが行われ、労働組合員数も戦前と比べて増加した。また、1916年に鉄道労働者の一日8時間労働を規定したアダムソン法(en)が翌年に合憲と判断されたことで他の産業にも、一日8時間労働が波及していった。女性が戦時労働力として活用されるようになったが、戦後の社会的地位向上によって就労が定着した。このことが労働単価を引き下げたり、年金の積立を促したりする経済効果を生んだ。 アメリカが第一次世界大戦に要した戦費(当時の価格で260億ドルないし327億ドル相当、ヨーロッパ諸国への借款分が別に96億ドル)は連邦所得税(大戦前に改正されたアメリカ合衆国憲法修正第16条が機能する)、「自由を守るための戦争」と称した戦時国債(en)の発行によって賄われた。証券はソロモン・ブラザーズなどによって販売された。
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