進歩主義の時代から現代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/04 04:13 UTC 版)
「ブライアクリフマナー (ニューヨーク州)」の記事における「進歩主義の時代から現代」の解説
ウォルター・ウィリアム・ローはW & J・スローンの副社長を辞めた後、家族と共に現在のブライアクリフマナーに移転してきた。1890年には最初の236エーカー (96 ha) の土地を購入し、その後10年も経たない間に約40の土地区画を購入することで、急速に資産を拡大した。1900年までにウェストチェスター郡の5,000エーカー (20 km²) 以上を所有していた。ローはこの村を開発し、学校、教会を建て、公園を造り、ブライアクリフ・ロッジを建てた。ブライアクリフ農園の従業員が村に入って来て、人口が増えたことで、ローはこの地域を村として設立する気になった。1902年10月8日、マウントプレザントとオシニングの監督官に対し、人口331人の居る640エーカー (2.56 km²) の地域をブライアクリフマナーの村として法人化する提案を行った(p14)。村は11月21日に法人化された(p43)。 テューダー復古調様式のブライアクリフ・ロッジは1902年に高級リゾートホテルとして開設された。ウォルター・ローの乳牛舎や温室で囲まれており、フランクリン・ルーズベルトとエレノア・ルーズベルトの夫妻など多くの著名人をもてなした。このロッジではエッジウッド・パーク学校(1936年-1954年)やキングス・カレッジ(1955年-1994年)を運営していたが、2003年9月20日の火事で焼けてしまった。 ブライアクリフマナー消防署が、1903年2月10日に、ブライアクリフマナー最初の消防団であるブライアクリフ・スティーマー・カンパニー第1号から設立された。1906年にスカボローがブライアクリフマナーに編入され、その2年後に警察署が組織された。村役場が1913年に建設され、1914年7月4日にオープンとなった。1928年に高校が開校し、1946年、候補者を立てることに興味がある住民を糾合した組織の人民集会党が創設された(p88)。1952年10月10日から12日、ブライアクリフマナーは設立50周年を祝い、村とその歴史に関する本を出版した。同年84戸からなるクロスロード地区が完成した(pi)。 1953年、トッド小学校が、ローパーク小学校の空いたスペースに開校した(p153)。ニューヨーク・セントラル鉄道のパットナム線が1958年に廃線となり、翌年、元のブライアクリフマナー鉄道駅にブライアクリフマナー公共図書館が開館した。1960年、村で初の法人施設(フィリップス研究所の一部)が開設された。1964年、新しい村役場が開設され、それまでの役場に代わった。1971年、現在の高校が開校し、多くの入学生のために小学校の校舎を使っていた状況を緩和した(pp153–4)。ペース大学が1977年にブライアクリフ・カレッジを買収し、プレザントビル・キャンパスの分校にした。翌年、スカボロー学校が閉校になった。1980年、ペース大学が中学校校舎の賃借を開始し、中学校は新しい高校校舎に移転した。1996年、小学校校舎が解体され、翌年その場所に老人福祉施設が建設された。2002年、村は設立100周年を祝い、幾つかの行事を行った。
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