農民運動・婦人運動
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新藤謙は、黎子が全農支部の中に婦人部を作り、日本の各地域の活動記録を綿密にまとめ上げたことを、農民運動家としての黎子の業績に挙げている。一例として、1931年12月の宗岡村の小作争議での記録に添えられている「昭和6年度田小作反歩収支計算書」は、後の平成期においても価値の高い資料とされている。また、弁護士の布施辰治を招待しての農村問題演説会の開催、物品共同購入の世話役などの活動も行っており、組織者としても力量のあることが示されている。 先述の奥むめおは、黎子が全農埼玉県連の婦人部長としての活躍を「後進の婦人に、大きな感銘を與えるに足るのである」と回想している。なお黎子は奥に、富裕層の生まれであることを告げておらず、奥は黎子の新聞の追悼記事で初めて彼女の素性を知ったという。 1931年に熊谷に滞在していた際には、同志の1人から以下の評価を受けており、上京当時に定輔から不安がられるほど実生活の知識に疎かった黎子が、闘士の1人として成長していたことが窺える。 その優しさの中に、彼女がレーニン主義を把握していた事は、当時の婦人部の種々のプリントでわかる。(中略)全農埼連の熊谷時代をかえりみて、黎子君の前に出て恥しくない闘士が何人あるか。彼女の根強い実践力に対して我々は全く頭を下げる外はない。 — 蒲池紀生「渋谷定輔と黎子」、蒲池 1978a, p. 293より引用 1932年の『全農埼玉県連婦人部報告書』では、農村婦人の既婚者と未婚者に大きな違いがあることを説き、女子青年団に対する不満、人身売買、強制結婚、衣服、小遣い銭などが未婚婦人にとって大きな問題であることが具体的に掘り下げられていた。また、各地で開催される集会を、形式に流されることなく、あくまで地味に、且つ、婦人たちが楽しく集まることのできる座談会になるよう配慮することで、日常生活の中で生じる不平不満や要求などを、参加者が気兼ねなく話した上で、参加者全員がその解決方法について話し合う、といった進め方がなされていた。講師や指導者の役割を、その全員での話し合いを整理してまとめ、全員が納得のいくように正しい方法に結論付けることとされていた。このことで黎子は、農村の女性たちの潜在的な力を引き出し、組織作りのためにそれをどう結び付けていけば良いかを、常に念頭に置いていたとする評価もある。 黎子の死去時、東京日日新聞の9月18日付の紙上で、「淋しく逝った……黎子さん」と題し、「夫定輔氏の運動を助け内助の生活戦線に戦った女史の一生は茨の道ではあったが、若き婦人の一縷の暗示を遺した」と報じられた。 歴史学者である安田常雄は、黎子が農民運動において、女性たちのために産婆の資格を取ったように、農村の女性たちの間に入り、親身になってその悩みを聞き、その組織化に努力したことを特筆に値することと評価している。これについては社会運動家の田島貞衛も、黎子が農民たちの間に活動していたことについて、黎子の没後に先述の『渋谷黎子雑誌』で、以下の通り述べている。 あの慈愛に溢れた強い優しい黎子君の容姿が見られなくなつてからといふものは、各支部の娘さんやおかみさんは勿論、親父さんから老人子供達まで、不平不満や相談事の持つて行き所がなくなつて了ひ、皆んなはとても寂莫を案じてゐた。 — 田島貞衛「渋谷君夫妻について」、安田 1987, p. 172より引用 また田島貞衛は同じく『渋谷黎子雑誌』において、黎子らの同志としての立場から、浦和在住時の定輔と黎子による同志たちの指導を、以下のように回想している。 全農埼連の創立当初の血みどろな闘争の経験をつぶさに嘗めつくした渋谷君夫妻は、闘士連の悩みや苦しみを誰よりもよく解ってゐてくれたし、県連の財政不如意を誰よりもよく知り抜いてゐた。だから、僕等が訪ねると、全く階級的な温か味をもって接してくれたし、どんな若い闘士もをも尊敬して指導してくれたのである。 — 田島貞衛「渋谷君夫妻について」、安田 1981, p. 265より引用 黎子の生き様については、先述の新藤謙は「その真摯な生き方は、今日のわたしどもに多くの教訓と、力強い励ましを与える」と述べ、ほぼ同時期に新時代を開拓した福島出身の女性として、三瓶孝子と黎子の名を挙げている。満25歳で早逝したことを惜しみ、戦後まで存命であれば日本のリーダーとなっていたであろうとの声もある。 一方で、先述の山本弥作は、定輔や黎子の同志でありながら、農民運動家としての黎子は未熟であったとも批判している。 私は同志黎子が完成されたコミュニストであったことを強調するものではない。理論的にも未だ徹底してゐたとは言へず、又インテリ的な潔癖さの故に、多少抱擁力を欠き屈伸自在な戦術を樹て、駆使し得るとまでは生き得なかったことは事実である。 — 山本弥作「同志渋谷黎子さんを憶ふ」、安田 1981, p. 312より引用 この点については黎子自身、1931年12月に著した「農村勤労青年婦人組織について」の中で以下の通り述べており、農民運動に足を踏み入れてまだ日の浅い彼女にとって、農村女性の組織化の課題は大変な難題であったことが示唆されている。 各地に於ける婦人部も争議の勃発と共に組織され、争議終了と共に婦人部は自然消滅の如き状態に陥っている。かくて一度組織された婦人部も、あるいは自然消滅となり、あるいは不活発となり、婦人部の発展は遅々としてみるべきものがないのである。 — 渋谷黎子「農村勤労青年婦人組織について」、渋谷 1978, p. 222より引用 先述の梅宮博も、マルクス主義者として黎子と定輔を比較した場合、理論的な面と実践的な面の双方において、黎子は定輔にはるかに及ばなかったと述べており、だからこそ黎子は定輔を師として強く信頼していたと推測している。 なお、郷里である福島県ですら黎子の知名度は低く、「無名」「知る人が少ない」「あまり知られていない」としている資料も多い。これは、その生涯の短さもさることながら、黎子が農民運動に身を投じてから死去するまでの1920年代から1930年代という時代が、治安維持法の存在、および東北地方の農村の保守的な性格もあって、その生涯が伝承されることもなく、敬愛されるには至らなかったと指摘されている。作家の杉山武子は、ほぼ同時期に活動した女性として高群逸枝と黎子を比較し、以下の通り述べている。 高群逸枝が、生活者の地点からは少し距離のある高台で咲く大輪の花だとすれば、渋谷黎子は私達のすぐそばで悩み、迷い、ほほえむ野の花であろう。 — 杉山武子「寂莫を超えて 渋谷黎子の生と死」、杉山 1988a, p. 41より引用
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