農民運動・婦人運動とは? わかりやすく解説

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農民運動・婦人運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:36 UTC 版)

渋谷黎子」の記事における「農民運動・婦人運動」の解説

新藤謙は、黎子が全農支部中に婦人部を作り日本各地域活動記録綿密にまとめ上げたことを、農民運動としての黎子の業績挙げている。一例として、1931年12月宗岡村小作争議での記録添えられている「昭和6年度田小作反歩収支計算書」は、後の平成期においても価値の高い資料とされている。また、弁護士布施辰治招待して農村問題演説会の開催物品共同購入世話役などの活動行っており、組織者としても力量のあることが示されている。 先述奥むめおは、黎子が全農埼玉県連の婦人部長としての活躍を「後進婦人に、大きな感銘與えるに足るのである」と回想している。なお黎子は奥に、富裕層生まれであることを告げておらず、奥は黎子の新聞追悼記事初めて彼女の素性知ったという。 1931年熊谷滞在していた際には、同志1人から以下の評価受けており、上京当時に定輔から不安がられるほど実生活知識疎かった黎子が、闘士1人として成長していたことが窺える。 その優しさ中に、彼女がレーニン主義把握していた事は、当時婦人部の種々のプリントでわかる。(中略全農埼連の熊谷時代かえりみて、黎子君前に出て恥しくない闘士何人あるか。彼女の根強い実践に対して我々は全く頭を下げる外はない。 — 蒲池紀生「渋谷定輔と黎子」、蒲池 1978a, p. 293より引用 1932年の『全農埼玉県婦人報告書』では、農村婦人既婚者未婚者大きな違いがあることを説き女子青年団対する不満、人身売買強制結婚衣服小遣い銭などが未婚婦人にとって大きな問題であることが具体的に掘り下げられていた。また、各地開催される集会を、形式流されることなく、あくまで地味に且つ婦人たちが楽しく集まることのできる座談会になるよう配慮することで、日常生活の中で生じ不平不満要求などを、参加者気兼ねなく話した上で参加者全員がその解決方法について話し合う、といった進め方なされていた。講師指導者役割を、その全員での話し合い整理してまとめ、全員納得のいくように正し方法結論付けることとされていた。このことで黎子は、農村女性たち潜在的な力を引き出し組織作りのためにそれをどう結び付けていけば良いかを、常に念頭に置いてたとする評価もある。 黎子の死去時、東京日日新聞9月18日付の紙上で、「淋しく逝った……黎子さん」と題し、「夫定輔氏の運動助け内助の生活戦線戦った女史一生茨の道ではあったが、若き婦人一縷の暗示を遺した」と報じられた。 歴史学者である安田常雄は、黎子が農民運動において、女性たちのために産婆資格取ったように、農村女性たちの間に入り親身になってその悩み聞き、その組織化努力したことを特筆値することと評価している。これについては社会運動家田島貞衛も、黎子が農民たちの間に活動していたことについて、黎子の没後先述の『渋谷黎子雑誌』で、以下の通り述べている。 あの慈愛溢れた強い優しい黎子君容姿見られなくなつてからといふものは、各支部娘さんおかみさんは勿論、親父さんから老人子供達まで、不平不満相談事の持つて行き所がなくなつて了ひ、皆んなはとても寂案じてゐた。 — 田島貞衛「渋谷夫妻について」、安田 1987, p. 172より引用 また田島貞衛は同じく渋谷黎子雑誌』において、黎子ら同志としての立場から、浦和在住時の定輔と黎子による同志たちの指導を、以下のように回想している。 全農埼連の創立当初血みどろ闘争経験つぶさに嘗めつくした渋谷夫妻は、闘士連の悩み苦しみを誰よりもよく解ってゐてくれたし、県連財政不如意を誰よりもよく知り抜いてゐた。だから、僕等訪ねると、全く階級的な温かをもって接してくれたし、どんな若い闘士もをも尊敬して指導してくれたのである。 — 田島貞衛「渋谷夫妻について」、安田 1981, p. 265より引用 黎子の生き様については、先述新藤謙は「その真摯な生き方は、今日わたしども多く教訓と、力強い励まし与える」と述べ、ほぼ同時期に新時代開拓した福島出身女性として三瓶孝子と黎子の名を挙げている。満25歳早逝したことを惜しみ戦後まで存命であれば日本リーダーとなっていたであろうとの声もある。 一方で先述山本弥作は、定輔や黎子の同志ありながら農民運動としての黎子は未熟であったとも批判している。 私は同志黎子が完成されコミュニストであったことを強調するものではない。理論的に未だ徹底してゐたとは言へず、又インテリ的な潔癖さ故に多少抱擁力を欠き屈伸自在な戦術て、駆使し得るとまでは生き得なかったことは事実である。 — 山本弥作同志渋谷黎子さんを憶ふ」、安田 1981, p. 312より引用 この点については黎子自身1931年12月著した農村勤労青年婦人組織について」の中で以下の通り述べており、農民運動足を踏み入れてまだ日の浅い彼女にとって、農村女性組織化課題大変な難題であったことが示唆されている。 各地に於ける婦人部も争議勃発と共に組織され争議終了と共に婦人部は自然消滅如き状態に陥っている。かくて一度組織され婦人部も、あるいは自然消滅となり、あるいは不活発となり、婦人部の発展遅々としてみるべきものがないのである。 — 渋谷黎子農村勤労青年婦人組織について」、渋谷 1978, p. 222より引用 先述梅宮博も、マルクス主義者として黎子と定輔を比較した場合理論的な面と実践的な面の双方において、黎子は定輔にはるかに及ばなかったと述べており、だからこそ黎子は定輔を師として強く信頼していたと推測している。 なお、郷里である福島県ですら黎子の知名度低く、「無名」「知る人少ない」「あまり知られていない」としている資料も多い。これは、その生涯短ささることながら、黎子が農民運動身を投じてから死去するまでの1920年代から1930年代という時代が、治安維持法存在、および東北地方農村保守的な性格もあって、その生涯伝承されるともなく敬愛されるには至らなかったと指摘されている。作家杉山武子は、ほぼ同時期に活動した女性として高群逸枝と黎子を比較し以下の通り述べている。 高群逸枝が、生活者地点からは少し距離のある高台で咲く大輪の花だとすれば渋谷黎子私達のすぐそばで悩み迷い、ほほえむ野の花であろう。 — 杉山武子「寂超えて 渋谷黎子生と死」、杉山 1988a, p. 41より引用

※この「農民運動・婦人運動」の解説は、「渋谷黎子」の解説の一部です。
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