農民運動への参加
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また、普選運動にも関わり、山梨青年改造連盟や中巨摩郡立憲青年党のメンバーとなる。妹尾義郎・高田一太郎ら普選運動家と交流し、デモや演説などを行う。特に高田の影響でマルクス主義の影響を受ける。大正期に山梨県では小作争議が盛んとなり、1922年(大正11年)に樋口は国母村で小作組合を組織して争議を開始する。1925年(大正14年)には国母村の村会議員にもなっている。 翌大正15年には田中正則の誘いで日本農民組合(日農)に参加する。日農参加直後には富士身延鉄道(身延線)の敷設に際した田畑の小作権利金獲得闘争が起こる。樋口は1927年(昭和2年)2月に組織された富士身延鉄道延長敷地耕作権擁護期成同盟会の代表者となり、富士身延鉄道会社と交渉して耕作権利金を獲得し、この闘争を通じて樋口の名が知られるようになる。また、甲府市太田町の太田町公園(現在の甲府市遊亀公園)で夜間の秘密勉強会を行い、組合に参加してきた若年層の組織化を図る。1929年(昭和4年)2月には社会民衆党傘下の青年団体である山梨民衆青年同盟が結成され、樋口は委員長となる。 1933年(昭和7年)の山梨共産党事件以後は農民運動家に対する警察の取締が強化され、樋口も転向させられ、社会民衆党を脱退する。その後は旧同志の選挙応援演説などを行なっていたが、1936年(昭和11年)には田中正則らと愛国労働農民同志会の山梨県支部を設立する。翌昭和12年8月に国母村は甲府市と合併し、翌昭和13年の市議会選挙に出馬するが、次点に終わる。 戦時下において農民組合は解散させられるが、樋口は活動の継続を願い、1938年(昭和13年)には元右派闘士らと農業問題研究所を設立する。
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