詩とその影響
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「エミリー・ディキンソン」の記事における「詩とその影響」の解説
エミリーの詩は、他の詩人の作品とは異なっていて、しばしば一目で見分けがつく。バラードと賛美歌の韻律を作る才能、草稿に見られるダッシュの多用と型にはまらない大文字の使用、風変わりな語彙と比喩的描写などにより、独特の叙情詩を作っている。 1840年から50年の10年間に、マサチューセッツ西部を席巻した信仰復興のただ中に、エミリーは詩人という天職を見出した。彼女の詩の多くが、日常の小さな出来事の反映であったり、社会の大きい事件であったりする。その大半は、南北戦争中に作られた。南北戦争が、詩に緊張した感じを与えていると考えている人も多い。エミリーは、一時的にではあるが、自分の詩を出版しようと考えており、文学批評家であるトーマス・ウェントワース・ヒギンソン(Thomas Wentworth Higginson)にアドバイスを求めたほどであった。ヒギンソンはただちに詩人の才能を認めたが、彼がエミリーの詩を、当時人気のあったロマン主義的なスタイルに倣い、より華麗な文体に「改善」しようとすると、エミリーはすぐに出版計画への興味を失った。 1886年の死去までに、わずかに7つの詩が世に出され、そのうち5つはSpringfield Republican紙上に掲載された。死後の1890年代に出版された3つの詩集で、エミリーはパワフルな奇人であることが証明されたが、詩人として評価されるのは20世紀を待たなければならなかった。エミリーの詩は、その死後、ヒギンソンとメイベル・ルーミス・トッド(Mabel Loomis Todd)によって撰集された。トッドは、収集と整理を、ヒギンソンは、編集を行った。彼らは、草稿の句読法と大文字の使用法を19世紀後半の正書法にあわせるため、詩に大幅な編集を加え、時にはエミリーの間違いを減らすために、言葉の置き換えを行うこともあった。1890年、詩集「Poems」がボストンで発行され、大変な人気となった。それは、1892年の終わりまでに、11刷に達したほどである。「Poems: Second Series」(第2集)は1891年に発行され、1893年には5刷に達し、第3集は1896年に発行された。エミリーの2冊の書簡集は、1894年に出版されたが、それはトッドによって過度に編集と選り分けがなされており、中には日付すら改変されたものがあった。死後の一連の出版によって、エミリーの詩は、初めて衆目を集めることになり、ただちに読者を得た。ヒギンソンとウィリアム・ディーン・ハウエルズ(William Dean Howells)の好意的な論評や批評の支えもあって、詩は1890年から1892年の間、好評を博した。だが、90年代後半には否定的な批評が台頭する。トーマス・ベイリー・アルドリッチ(Thomas Bailey Aldrich)は、批評誌「アトランティック・マンスリー(Atlantic Monthly)」1892年1月号に、匿名で、影響力のある否定的な批評を掲載した。 「ディキンソンが奔放でグロテスクな想像力を備えていたことは明白である。彼女はブレイクの神秘主義に色濃く染まっており、また、エマーソンの手法の影響を強く受けていた・・・しかし、彼女の短詩に一貫性がなく、雑然としているのは致命的である・・・一風変わった、夢見がちで、中途半端に教養のある、へんぴなニューイングランドの村(あるいは他のどこか)に住んでいた隠者は、罰を受けずには、引力と文法の法則を無視することができない。」(in Buckingham 281-282) 20世紀初頭には、エミリーの姪であるマーサ・ディキンソン・ビアンチ(Martha Dickinson Bianchi)がさらなる詩集のシリーズを出版した。それには、以前には発表されていない詩が多く含まれており、同様に句読法と大文字の使用法が修正されていた。The Single Houndが1914年に、 The Life and Letters of Emily DickinsonとThe Complete Poems of Emily Dickinsonが1924年に、Further Poems of Emily Dickinsonが1929年に世に送られた。トッドとビアンチによって編集された他の書籍は、段階的に、以前には発表されていない詩を公開しつつ、1930年代を通して出版された。現代詩の興隆にともない、19世紀における詩形の観念では、失敗作だとされていたエミリーの詩は、もはや驚くべきものでもなかったし、新しい世代の読者とって不快なものでもなかった。そして、フェミニズムの新しい波によって、彼女は女性詩人としてより強い支持を得るようになった。疑いなく、彼女の株は上がったが、一般的には初期現代詩人の中の偉大な詩人であるとは考えられていなかった。それは、1937年に書かれたブラックマー(R.P.Blackmur)の批評においても明白である。 「彼女はプロの詩人でも、アマの詩人でもない。他の女性が料理や編み物をするのと同じように飽きもせず、個人的な詩を書いていたのである。彼女の言葉を使う天賦の才能や彼女が生きた時代の文化的な苦境が、彼女を、背もたれカバー作りではなく、詩作に駆り立てたのである。……テートが指摘するように、彼女が生まれたのはある種の詩作には適していた時代であった――すなわち、洗練された、異様な幻視の詩作である。いくつかの詩篇とすぐれて具象的な詩節に限っていうならば、そうした時代に生まれたことは彼女にとって良い方向に働いたともいえる。しかし……彼女の詩の大半は具象的ではなく、断片的な直説法による覚え書きにすぎない。残念なことは、彼女にはテーマも洞察力も観察眼も深い誠実さもあり、あとはいかにして、そしてなぜ、短い断片的な詩節ではなく長い本格的な詩を作るべきかを知っていさえすればよかったということを彼女の全仕事が証拠立てているということである。だが、彼女の生きた旧弊的な社会には、彼女が本能によって知ることまではできなかった教えを授けるような伝統は存在しなかった。」(195) 初期に刊行されたテキストは後の読者にはほとんど認められなかった。それらは、エミリーの草稿に基づいて甚だしく編集が加えられていたからである。エミリーの詩集の新しい完全版The Poems of Emily Dickinsonはトーマス・ジョンソン(Thomas H. Johnson)によって、1955年に3巻にまとめられて出版された。この版は、後の全てのディキンソン研究の基礎となり、その後の読者にエミリーを知らしめた。収められている詩にはタイトルがなく、およその時系列に沿って番号が振ってあり、ダッシュと不規則に使われた大文字がちりばめられている。また、しばしば極端に言葉が省略されている。それらは、最初、エミリーが残した原稿とできるだけ近い形で出版された。後に出版された注釈本には、代わりの言い回しが多く収録された。それは、編集の介在がより制限された中で、読みやすくするために、ジョンソンが強いて選んだものであった。後の読者は、ジョンソンによって活字化された、比較的原文に忠実なエミリーのテキストを読むとしても、残された問題に注目するだろう。そのテキストは、エミリーの原稿がそれらの見た目や図式的な特性が彼女の詩を読む際重要であることを暗示していることを主張しているのである。ことによると、意味のある区別は、詩の中で使われるダッシュの長さや角度の差異によって、あるいは、ページの中での配置の差異によって描かれるのかも知れないと主張されることもあった。エミリーの手書きのダッシュを、様々な長さや角度の印刷記号を用いることで、変化をつけようとする試みが行われてきた版もいくつかある。研究上の基本文献として標準ジョンソン版に取って代わることを目指したR.W.フランクリンの1998年版では、原稿のダッシュにより近くなるように、様々な長さのダッシュが使用されている。研究者自身が、原稿を見ることで研究がなされなければならないと主張する学者もいる。
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