詩と劇
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「ナタリー・クリフォード・バーネイ」の記事における「詩と劇」の解説
1900年、バーネイは処女作を刊行したが、それは『Quelques Portraits-Sonnets de Femmes』(『女性たちの肖像ソネット数編』)という詩集であった。バーネイは自由詩を好まなかったので、それらの詩は伝統的なフランス語韻文と形式的な、旧式のスタイルで書かれた。これらの詩作品は「習作」と説明されてきたが、この刊行によってバーネイは、サッポー以後、女性の愛について公然と書いた最初の女性となった。バーネイの母は、モデルの4人の女性のうち3人が娘の恋人たちであることを全く気づかずに、パステル画の挿絵を寄せた。 書評は全般的に肯定的で、詩作品の女性同性愛的主題を曲解し、なかには誤解さえしたものもある。「ワシントン・ミラー」によれば、バーネイは「男性の唇と眼への讃歌を書く。初心者のようにでもない。」。しかしながら、社交界ゴシップ紙の見出しは「ワシントンでサッポーが歌う」とわめきちらしたため、警戒した彼女の父は、出版社に残っている在庫と印刷版を買い求め、破壊した。 父の影響を避けるためにバーネイは次の書物『Cinq Petits Dialogues Grecs』(『短いギリシアの対話5篇』)をトリフェ(Tryphé)という偽名で刊行した。この名は原稿を編集・改訂するのを手伝った詩人および作家ピエール・ルイスの諸作品に由来した。バーネイはまた本書を彼に捧げた。対話のうち第一の舞台は古代ギリシアで、サッポーの長い描写を含むが、彼女は「他のひとが自分の誠実さに忠実である以上に、自分の移り気に忠実」である。もうひとつのは、キリスト教に対する異教の優位を議論する。1902年の父の死は、彼女に相当の財産を遺し、彼女が、書物の著者であることをかくす必要を無くした。その後彼女は二度と偽名を使わなかった。 『Je Me Souviens』は、ヴィヴィアンの死後、1910年に刊行された。同年、バーネイは『Actes et Entr'actes』(『幕と幕間劇』)を刊行したが、これは短い劇と詩作品の選集である。劇のうち1篇は『Equivoque』(『曖昧』)であったが、これはサッポーの死の伝説の修正主義版である。サッポーは、船乗りファオンへの愛のために絶壁から身を投げるのではなく、ファオンが自分が愛する女性と結婚しようとする悲しみから死を選ぶ。この劇は、サッポーの断片からの引用をバーネイ自身のギリシア語による脚注と合体させた。 バーネイは、「もしわたしにひとつの野望があったなら、それはわたしの人生を詩にすることであった」と言って、ヴィヴィアンほどには詩を真面目に受け止めていなかった。彼女の劇は、彼女の庭園でアマチュア劇団によって上演されたにすぎない。ペース大学の英語学教授で、女性およびジェンダー学科長のカーラ・ジェイによれば、それらの大半は首尾一貫した筋を欠き、「いかに共感的な観客であっても十中八九、彼らを困惑させるであろう」という。1910年以降、彼女は主としてエピグラムと回想録を執筆し、彼女はむしろそれらによってよく知られている。彼女の最後の詩集は『Poems & Poemes: Autres Alliances』といい、フランス語と英語両方でのロマンチックな詩を集め、1920年に刊行された。バーネイは、エズラ・パウンドにこれら詩作品の推敲を依頼したが、その一方で彼がよせた詳細なアドバイスを無視した。
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