詩と散文の著作
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「ヘンリー・ローソン」の記事における「詩と散文の著作」の解説
最初に活字になったローソンの詩は"A Song of the Republic"で、これは1887年10月1日に、彼の母の急進的な友人たちが勢力を持っていた雑誌『ブレティン』(The Bulletin)に掲載された。続いて"The Wreck of the Derry Castle"、そして"Golden Gully"が発表された。 1890年から91年の間、ローソンはアルバニーで働いた。91年にブリスベンの『ブーメラン』誌から誘いを受けて物を書きはじめるが、7 - 8ヶ月で問題を起こしてその仕事をやめている。シドニーに戻り、『ブレティン』誌への寄稿を続けた。1892年に『ブレティン』誌から旅費の交付を受けて内陸部へ旅し、日照りに苦しむニューサウスウェールズの現状を目の当たりにした。このことはブレティン論争(Bulletin Debate)への寄稿に反映され、またその後かれが書いた多くの作品の題材となった。20世紀の著作家ブルース・エルダーは、ローソンが行なったハンガーフォード(Hungerford)=バーク(Bourke)間の徒歩旅行についてこう述べている。「オーストラリアの文学の歴史において、最も重要な旅行」であり「それは彼がオーストラリアのブッシュに対して抱いていた全ての偏見を裏づけした。ローソンは『牧歌的な田舎』についてロマンティックな幻想を何ら持ち合わせていない」。エルダーが更に続けることには、ローソンの奥地に対する厳しい見方は「“バンジョー”・パターソンが描写する勇敢な騎手たちと美しい風景、すなわちロマンティックな田園風景」とは全くかけ離れたものである。 ローソンの最も成功した散文の作品集は、1896年に出版された"White the Billy Boils"である。その中で、彼は「パターソンおよびロマンティックな人々への攻撃を継続し、オーストラリアン・リアリズムとでも言うべき流れを作り出しつつあった」。エルダーは以下のように書いている。「彼は短く、鋭いセンテンスを使用した。その文体は後のヘミングウェイやレイモンド・カーヴァーのそれの原型であった。最小限の形容詞、徹底的に切り詰められた描写により、ローソンは1つのスタイルを確立し、オーストラリア人というものの輪郭……無愛想に寡黙で、熱烈に平等主義的、そして心底から人道的……をはっきりと示した。「胸の張り裂けるような、荒涼と孤独の描写」で知られる『家畜追いの妻』("The Drover's Wife")は、彼の最上の短編の1つだと見なされている。この作品は学校の教材として使用され、また映画や演劇にもなっている。 ローソンはスケッチ・ストーリー(sketch story) の利点を強固に信奉しており、"the sketch story is best of all"(スケッチ・ストーリーは全てに勝る)との言葉を残している。ローソンの「ジャック・ミッチェル」譚の1つ、"On the Edge of a Plain"は、最も完成度の高いスケッチの例としてしばしば言及される。 オーストラリア人の大多数と同様、ローソンは都会暮らしであった。しかし奥地での暮らしも少なからず経験しており、彼の作品の大半はブッシュにおける実生活の体験に基づいている。1898年の時点では、彼はシドニーでボヘミアンのクラブであるDawn and Dusk Club(夜明けと日暮れクラブ)の著名な会員となっており、作家仲間たちと会って飲酒と会話を楽しんでいた。
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